2011年10月29日土曜日

エピクテートス 08 人事を尽くして天命を待つ

エピクテートス


[8]


https://youtu.be/Q4xhHx-NGT8



エピクテートス提要 08


人事を尽くして天命を待つ


以下の文中の「提要」の和訳は岩波文庫『人生談義・下』(鹿野治助)からのものです
* * *

ケンガイ:エピクテートスの「提要」の8番をお願いします。
ケンナイ:8番は:「出来事が君の欲するように起ることを望まぬがいい。むしろ出来事が起るように起ることを欲し給え。そうすれば君はゆとりを持つようになるだろう。」とあるね。
ケンガイ:ずいぶんややこしい表現ですね。
ケンナイ:ややこしいことはないよ。普通はね、人は欲するように起こることを願うだけで、そうならないと怒ったり嘆いたりするんだよ。子供が何かを欲しがっ て買ってもらえないと、だいたいはそういう態度を取るね。オトナがそういう態度を取るなら、オトナガキつまり小人(しょうにん)だね。
ケンガイ:誰でも期待通りにならなければ不満足なのではありませんか?
ケンナイ:じゃあ、あなたの人生で、すべて期待した通りになってきたの?
ケンガイ:いえ、ほとんど期待ハズレでした。
ケンナイ:天気予報があまり当たらないのは知っているでしょう?
ケンガイ:時々腹が立ちますよ。
ケンナイ:うん。予想とか予報を当てにして生きると損をする場合があるね。エピクテートス先生が言っている「出来事が君の欲するように起ることを望まぬがいい。」というのは、自分が自分の人生の予想屋・予報屋になって生きてはいけないということだよ。つまり、性急な当てを作って生きてはいけない、ということだね。
ケンガイ:でも、なんらかの当てを持っていないと、仕事でも将来の人生設計でもうまくいかないのではありませんか?
ケンナイ:畑のことで説明してあげよう。春にカボチャとかキウリの種を適切な時期にまいたり、秋にソラマメやエンドウの種を適切な時期にまいたとしよう。まあ、やるべきことをやるわけだね。その時に、たくさん成るようにという「当て」を持っても持たなくても、種まきのタイミングがよくて、それ以降数ヶ月の天候に特別な異変が無ければ、収穫は例年通りだよ。問題は「当て」ではなく、その時その時にやるべきことをタイミングよくやるということなんだよ。
ケンガイ:そうすると、「むしろ出来事が起るように起ることを欲し給え。そうすれば君はゆとりを持つようになるだろう。」というのは、タイミングのことを言っているのですか?
ケンナイ:いや、タイミングのことだけではないね。種まきのタイ ミングはもっとも大切な要件だけれども、その後の世話も重要だよ。たとえばウリ類の幼苗はウリバエ(ウリハムシ)などに食害されやすいから、囲いをしてあげるとよいし、ツル有りエンドウなんかは適切な時期に支柱を立ててあげるし、野菜全般については土寄せの世話とかもしてあげるから、そういう栽培上の世話をこれまたタイミングよくしてあげることが、「出来事が起るように起ることを欲し給え。そうすれば君はゆとりを持つようになるだろう。」に該当するのさ。
ケンガイ:そうすると、エピクテートス先生が言う「欲する」というのは、アタマで願うだけではだめなのですね?
ケンナイ:もちろん。表現が下品かもしれないけれど、「上手に仕掛ける」ということだよ。
ケンガイ:仕掛ける?
ケンナイ:うん。ワシは釣りをしないからよくわからないけどね、たとえば釣りや大規模な漁でも、当てを持つことよりも、タイミングよく上手に仕掛けることができたかどうかが問題なのだと思うね。作物の栽培でも、ある意味では上手に仕掛けておけば、年中おいしいものをたくさん食べられるんだよ。冬ともなると、畑にはソラマメやエンドウなどが生育しているほかに、必要に応じて収穫される大根とか白菜などが目立つね?でも、そのほかに、ワシの畑の場合には、もうサトイモ・キクイモ・アピオス・ユリネなどが仕掛けられているから、春にはそれらが順に芽を出して来るのさ。このような場合には、当てを持ったかどうかというよりも、上手に仕掛けたかどうかが問題なんだね。
ケンガイ:今のお話を聞いていると、なるほど冬の間はのんびり待つというようなゆとりが有るのを感じますね。
ケンナイ:そうかい?あなたの会社での仕事はどうかね?
ケンガイ:追いまくられっぱなしです。
ケンナイ:うまく仕掛けられないのかい?
ケンガイ:とてもじゃありません。嫌な仕事が上から下りてくるだけですから、こちらはノルマに追われていつもてんてこ舞いです。
ケンナイ:そりゃあ大変だ。
ケンガイ:私のような立場の場合には、エピクテートス先生のアドバイスは役に立ちませんねえ。
ケンナイ:そんなことは無いさ。エピクテートス先生が言っていることは、ばガヴァドギーター bhagavadgītā の教えと同じであることに気がつけば、あなたのような立場の人にも充分に応用がきくよ。
ケンガイ:どういうふうに解釈すればよいのですか?
ケンナイ:ばガヴァドギーター bhagavadgītā の教えのエッセンスだから、あなたも習っているはずだけれどもね、仕事をする前に当てを作らない、仕事をしている最中には行為者意識を持たない、仕事を終わった後は結果にこだわらない、以上の三点を守って勤めたり、家庭で行動するなら、ばガヴァドギータの教えをもエピクテートス先生の教えをも守っているわけだから、そのままが修行生活になるんだよ。
ケンガイ:誠に立派な見解だとは思いますが、現実問題としては不可能ですね。
ケンナイ:それがあなたの欠点でね、そういうふうに決めつけるからみずから限界を設けてしまっているんだよ。チャレンジする前から無理だと考えてしまえば、それは無理だろうね。
ケンガイ:あまりにも高尚な見解は、自分とはかけ離れているように感じてしまうのです。
ケンナイ:そんなふうに自分の考えを持ち出さないで、まずは聖賢方の貴重な教えを素直に聞き入れようという態度を持たない限り、修行というのは成り立たないんだし、あなたも決して幸福にはなれないんだよ。幸福になりたいんじゃないの?
ケンガイ:もちろん幸福になりたいですよ!
ケンナイ:幸福になれない原因を自覚しているの?
ケンガイ:…
ケンナイ:自分にはできないのだと頭(当初)からアタマで決めつけることがマズイんだよ。そういう反応癖・考え癖を捨てない限り、修行なんてとてもできないねえ。マズイお茶が残っている茶碗に、おいしいお茶を入れてくれ、というようなものじゃないかね?
ケンガイ:理屈としてはわかるのですが…
ケンナイ:そういうのを屁理屈というのさ。屁理屈を真理の教えよりも大切にするのがグシャだね。
ケンガイ:どうすればいいのでしょう…
ケンナイ:真理の教えに触れたなら、自分の解釈無しにただそのまま実践すればいいのさ。Do it without thinking!