2011年10月25日火曜日

エピクテートス 31 自然への感謝

エピクテートス


[31]


https://youtu.be/_r9OEgfdAaY







エピクテートス提要 31


自然への感謝


以下の文中の「提要」の和訳は岩波文庫『人生談義・下』(鹿野治助)からのものです
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ケンガイ:エピクテートスの「提要」の 31 番をお願いします。
ケンナイ:31 番は:「神々に対する敬虔について、最も肝要なことは、それら神々について彼らが存在し、そして宇宙を美しく正しく支配しているという正しい考えを持つことであり、彼らに服従するように君自身を配置し、すべての出来事に譲歩し、最高の知によって行なわれているのだと考えて、自ら進んでそれらに従うことだ、と知るがいい。というのはそのようにすれば、君は神々を非難することもなかろうし、また無視されていると苦情を言うこともなかろうから。」とあるね。
ケンガイ:どうも神々という概念になじまないのですが。
ケンナイ:言葉に対するイメージは各人各様だから、神とか神々、あるいは仏とか仏祖などという言葉を好きな人たちもいれば嫌いな人たちもいるね。エピクテートス先生が言っている「宇宙を美しく正しく支配している」ものを神々と思うなら、そういう原理の神格化・擬人化だと理解しておけば、何も問題は無いんじゃないの?
ケンガイ:な~るほど。
ケンナイ:山の神・海の神・風の神なども、「宇宙を美しく正しく支配している」現象原理を思えばいいのさ。
ケンガイ:そういうことなら、別に抵抗はありませんね。
ケンナイ:簡単に言うなら、自然に即して生きよということだからね。
ケンガイ:そうすると、現代文明の我々は、神々を冒涜(ぼうとく)して生きているように思いますね。
ケンナイ:そうね。
ケンガイ:どうしてそうなったのでしょうね?
ケンナイ:エピクテートス先生の説明は:「しかしこのことは、君 がわれわれの権内にないものを断念して、われわれの権内にあるものにのみ善悪を置くのでなければできないことだ。というのはもし前者に属する何かを善いとか悪いと思うならば、君が欲するものを得そこなったり、欲しないものに出会う場合には、どうしてもその原因である人たちを非難したり、憎んだりせざるを得ないだろうから。」
ケンガイ:結局どういうことなのですか?
ケンナイ:つまりね、自然に関して言えば、自然のありかたを受容するのではなく、権外である自然を権内の自由意志でこうあってほしいと思うようになると、自分の思惑と相反する事態になる場合には、自然あるいはその支配者である神々を憎み冒涜するようになるということだよ。「神も仏も無いものか!」とヒステリーを起こすのさ。
ケンガイ:雨風を受容することはできても、大きな地震や津波などをそのまま受容するのは、誰にとってもできないのではありませんか?
ケンナイ:そうね。続きを読んでみよう:「なぜかといえば本来すべての動物は、一方では有害に見えるものやそれらの原因は逃れて避けるが、他方では有益なものやそれらの原因は追っかけて驚歎するようにできているからである。それで人が害されていると思う時、ちょうど害そのものを悦ぶことができないように、加害者と思うものを悦ぶことは不可能だ。そこからして父といえどももし善いと思われるものを子供に与えぬ時は、子供から罵(ののし)られるのだ。そして独裁権を善と思うこのことがポリュネイケースとエテオクレースとを互に敵たらしめたのである。だから百姓も神々を罵り、だから船漕ぎも、商人も、妻子を失った人々も、神々を罵るのである。」
ケンガイ:そうしますと、人は苦楽を感じる自分の判断基準に従って、神々でも人でも賞讃したり非難するわけですか?
ケンナイ:解脱者でない限りそうだね。だから、どういう「判断基準」を持っているかが問題になるね。
ケンガイ:どういう判断基準を持つのがよいのでしょう?
ケンナイ:ニホンザルならその社会の掟みたいなものが有るから、その掟に従って生き方の法則が刷り込まれるし、その他の動物でも同様のルールが有るね。人間の場合も同様で、日本で生きるための判断基準と、たとえばコンゴで生きるための判断基準との間には、色々な相違点が有って当然だろうね。ケースバイケースだから、この判断基準がいいとは言えないけれど、人類よりも大きなパワーを持つ自然の掟を無視する判断基準は、人類をもその他の生物をも不幸にするだけだね。
ケンガイ:そうしますと、自然に即して、各生物の社会に応じたルールの範囲内で生きるのがよさそうですね。
ケンナイ:基本的にはそうだね。エピクテートス先生もこう続けているよ:「というのは利益のあるところ、そこに敬虔もあるのだからである。従ってしかるべき欲望と忌避とに心を用いている者は誰でも、同時に敬虔にも心を用いているものだ。御神酒(おみき)をそそいだり、犠牲をしたり、祖先の風習に従って初物をあげたりするには、それぞれの時において、清らかであり、ぞんざいでも不注意でもなく、けちくさくもなく、身分不相応でもないことが適当である。」
ケンガイ:私は色々な風習に従った行事とかお供えなどを何もしていないのですが、そういうことにものすごく熱心な人たちがいますよね?
ケンナイ:そうね。あなたは小さい頃、町や村のお祭りに行ったことがあるでしょう?
ケンガイ:ええ。綿飴が好きで、よく買ってもらいましたよ。
ケンナイ:じゃあ、感謝祭に参加したわけだ。
ケンガイ:感謝祭?
ケンナイ:うん。日本でのお祭りの大半は秋の米の収穫に対する自然とその神々への感謝の儀式に発するからね。
ケンガイ:そうなんですか?
ケンナイ:そうさ。世界中で行なわれて来たお祭りは祭祀 yajJa であって、自然・神々・先祖への感謝の儀式だよ。そこに目をつけたのが、祭祀権を‘我がもの mine’にするマツリゴト、つまり政治だよ。
ケンガイ:政治は祭祀権の分捕りですか?
ケンナイ:まあ、そのようなものだね。今でも政治家や官僚たちはあれこれ分捕っているね。
ケンガイ:まったく。
ケンナイ:自然への感謝はお祭りでなくてもできるよ。
ケンガイ:どうするのですか?
ケンナイ:土・水・空気をきれいに使い回すことが感謝だよ。
ケンガイ:人類は汚しっぱなしですからねえ。
ケンナイ:汚さない生き方だけでも感謝につながるけどね。
ケンガイ:都会で生活していて環境を汚染しないというのはむずかしいですね。
ケンナイ:そうね。ワシのように、半田舎に住んでいても、農家は農薬を使うし、住民たちは台所から化学物質まじりの水を流すし、都会でなくても環境汚染という点では同様だね。
ケンガイ:そうすると、我々は神々を冒涜する生活をしていることになりますね?
ケンナイ:その通り。
ケンガイ:自然を汚さない生き方というのは、もう不可能になってしまったのでしょうか?
ケンナイ:不可能とは言いたくないけど、はなはだ困難だね。だからこそ、無肥料無農薬で作物を育てることには価値が有るよ。
ケンガイ:私も本当のお祭りをできるものなら、定年退職した後は、畑をしたいですね。
ケンナイ:けっこうなことだよ。自分意識(エゴ)にマツロワズ、無肥料無農薬の栽培をしながら、権内の王者になってごらん。