2011年12月23日金曜日

ヨーガヴァースィティ 32 : 5 瞑想行 7アートマヴィチャーラ2


5全体生命にめざめる瞑想行


7 アートマ・ヴィチャーラ Atama-vicAra 2

No. 12



http://youtu.be/UTy8A05eO4k

Q:心を静めるための他の方法はないのですか?

A:[「私」の思いの]探求以外に、[それに匹敵する]適正な方法は無い。もし他の手段によって心をコントロールしようとすれば、心はコントロールされたように思われても、それは再び[外向]活動を始めるだろう。息のコントロール(プラーナーヤーマ prANAyAma)によってもまた、心は静まる。しかし息がコントロールされている間だけ心は静まるだろうが、息が元の[普通の]状態にもどれば心は再び動き始め、[自分の心(チッタ)の条件づけとしての様々な]残存印象(習気(じっけ) ヴァーサナー vAsanaA)につき動かされてさまよい歩くことになるだろう。心と息の両方にとって、その[活動のためのエネルギーの]源は同じ[所から来ているの]である。考え(る)事は、実に心の本来的な性質である。

「私(アハン)」という思いは心から発する最初の思いで、それがエゴ(ahaMkAra 自意識)で ある。エゴ性が生まれ出るのと同じ所から、息もまた生まれ出てくる。それで、心が静まると息もコントロールされ、息がコントロールされると心も静まる。しかし熟睡(ニドラー nidrA)においては、心は静まっているものの、息は止まらない。これは神の計らいあってのことで、体が維持され、また他の人から死んだと思われないためである。[普通の]目ざめている状態(ジャーグラト jAgrat)と三昧(サマーでぃ samAdhi)においては、心が静まると息もコントロールされる。息は心の粗雑な形(姿)と言える。死がやってくるまで、心は体の中に息を保持しておくが、体が死ぬ段になると、心は息を体からいっしょに引き取ってしまう。だから息のコントロールの実修は心を静かにする事(manonigraha; manolaya)の一手段にすぎず、その実修で[の活動]を破壊してしまうこと(manonAza。マノー・ナーしゃ)[=自意識の完全終止]はできない。息のコントロール(プラーナーヤーマ)の実修と同様に、神の色々な姿を瞑想すること mUrti-dhyAna や、マントラの反復唱 mantra-japa や、食事の節制 AhAra-niyama などもまた、心を静めるための手段にすぎない。神の御姿を瞑想することや、マントラの反復唱によって、心は一点に集中される。

心というものはいつでもさまよい歩きたがるものである。ちょうど象が鎖を当てがわれて鼻をつながれてしまえば、鎖の他は何もつかむことができないように、心も[神の]御名や御姿で満たされていれば、ただそれだけをつかんでいるだろう。心が数知れない考え事へ拡散(散乱)すれば、それぞれの思いは[充分なエネルギーを受けられずに]弱いものになるが、諸々の考え事が解消覚触されると、心は一点に集中し[得るので、エネルギーは充分供給され]強いものになる。そのような[一点集中を持続できる強い]心にとって[のみ]、自己[の思いの出所]の探求は容易になる。すべての戒律の中では、清らかな[飲]食物を適量摂取する[=ミターハーラを守る]のが一番よく、それを順守すれば心は澄み浄まっていき、自己[の思いの出所]の探求の助けになるだろう。

No. 15



http://youtu.be/qhGgWMw-yGs

Q:[思いの出所の]探求は、どのくらいの期間実修しなければいけないのでしょうか?

A:心の中に諸々の対象の残存印象(習気=執着がある限り、「私は誰か?」という探究(=だーラナー覚触)をし続ける必要がある。あれこれの考え事がわき起こってきたなら、まさにその瞬間にその思いの場において[その思いは誰に起こったのか?と]問いつめることにより、ひとつひとつの思いを破壊(手放し)しなければいけない。自己の本性の探究(sva-rUpa-smaraNam[=憶念・探究])を中断することなく実修するなら、ついには自己の本性が現成(げんじょう)するが、それだけが[習気に起因する]思いを破壊し得る。城塞(じょうさい)[=心←第八識の中に[=思い←習気]がいる限り、敵は攻撃し続けるだろうが、彼らが出撃(しゅつげき)するたびにやっつけてしまえば、城塞は味方[=自己の本性]の手に落ちるだろう。


ラマナマハルシの教えは、一つ一つが核心を突いている。聖賢がたの教えは、弟子・信徒たちの質問に対して回答されたものがほとんどで、質問者と同席者たちのレベルに合わせて回答されることも多く、究極の命題“私は誰か?Who am I? (ko'ham)”にアプローチするための段階的説明であることもあれば、そのものズバリの説明であることもある。それらの質疑応答の記録を読む者は、自分のレベルで解釈するので、ゴールとプロセスの全貌を理解していない場合には、教えの真意を汲み取れないこともある。それで聖賢の教えは一度読めばいいというものではなく、何度でも繰り返し読み込まなければいけない。