2011年12月21日水曜日

ヨーガヴァースィティ 39 : 6 修行生活上の心得 4 今ここ自己


6 修行生活上の心得



https://youtu.be/uLQOFbPXWlI

今ここ自己(わたし)


過ぎ去ったことをクヨクヨ思う
今カコでもなく
未だ来ないことをアレコレ想う
今ミライでもなく
この人生をあるがままに今ここ深くみつめない
今ホカでもない
修行も生活も 安定してのびやかに
今ここ自己(わたし)

私欲を離れなににもとらわれず
この日今ここでこそ勤めるべき
そうすればこの人生は
平和とよろこびいっぱい


明日というのではもう遅い
死はふいにだれにでもやってくる


昼夜を分かたず
孤高(ひとつ)全体宇宙生命として
無上の気づきをもって生きる人
それが聖者もたたえる
唯我独尊 全体生命(ゆいがどくそん・いのち)はひとつ

(ゴータマ・ブッだの教え)


私が中国の天童山に滞在修行していた時、用(ゆう)という方が典座の職に当たっていた。ある時、用(ゆう)典座が日中の暑いさ中、海藻を干す仕事をしていたので、どうして手伝いの人にやらせないのかをたずねた。用(ゆう)典座は、「他人がした事は自分がした事にはならない」と答えられた。私はまた言った:「こんなに暑いのに、どうして今その仕事をされるのですか?」。用(ゆう)典座は、「今をはずして一体いずれの時を待つのか」と答えられた。私はこの用(ゆう)典座から、“今ここ自己”を教えられたのだった。
「今」を過去でもなく未来でもない瞬間(クシャナ kSaNa)として認識するのは、考え事に囚われた凡人には不可能である。「今」は栓のある器物の蓋の象形で対象(中身)がこぼれないようにする、ということらしいが、肉体の蓋は皮膚だから肉体を皮袋と言うし、その皮袋の上部には頭陀袋アタマが乗っかっていて、これは‘思いはあたまの分泌物’を漏らしっぱなしである。記憶袋に蓋をしても、‘欲望 rAga・恐れ bhaya・怒り krodha’が漏れて、手足を持った頭陀袋アタマが世間で徘徊するか暴走するのである。「心に深く思うものを念という」と『字統』に出ているが、の出所に栓をして純粋識 cit だけ=唯識性に定住すれば「今ここ自己」だが、「私 - 私 'I'-'I'」(セルフ Self)から「私 'I' という思い ahaMkAra; aham-vRtti (I-making)」を漏らしてしまえば「私の my妄想三昧になり、今過去・今ホカ・今未来は無限の夢幻となり、空華(くうげ)ガーデンに「私 'I'」という皮袋+頭陀袋アタマを遊戯(ゆうぎ・ゆげ)させるのである。