2011年12月20日火曜日

ヨーガヴァースィティ 48 : 6 修行生活上の心得 11 信心銘から


6 修行生活上の心得



http://youtu.be/oNHXbf4ntGs

至道(し(い)どう)無難(ぶなん)
(た)揀択(けんじゃく)(きら)(ゆいけんけんじゃく)
(た)だ憎愛(ぞうあい)(な)くんば
洞然(とうねん)として明白(めいはく)なり
高の真理(=仏道)を歩むのはしいことではい。
(た)だ単に揀択(けんじゃく)つまり選り好みすることを(=離れれ)ばよい。
(た)悪したり(な)いであるがままに受容すれば、
この世界人生(ほら)のように断見通しがよく明白な生命活動ができる。
The Great Way is not difficult
偉大な道は難しく無い(至道無難
for those who have no preferences.
より好みしない者達には(唯嫌揀択
When love and hate are both absent
愛憎がどちらも無い時 (但莫憎愛
everything becomes clear and undisguised.
全ては明瞭で公然になる(洞然明白

[平語訳]


生きていくのはなにもむずかしいことではない
あれこれいやだと思わなければよい
嫌いだとか好きだとかこだわらなければ
今ここ自己(わたし)スカットスッキリアッケラカン



緑葉好きでも枯葉嫌い
犬猫好きでも蛇嫌い
そんな自分を好き?嫌い?
我愛はカワイクないという

[参考]


私達はまず食・衣・住のそれぞれにこだわります。飲食物の好き嫌いがまったく無いという人はまれです。ゴータマ・ブッだは托鉢(たくはつ)で得たものに対して、ラマナマハルシは供養されたものに対して揀択(けんじゃく)しなかったのを、私達はまねることができないでしょう…?私は自分で栽培した野菜を食べているので、市販されている野菜を選ばないという揀択(けんじゃく)をしています。

「衣」はどうでしょうか?世間の人々の大半は「おめかし」するのに、大変なお金や気を使います。いくら「おめかし」しても、裸体の実力は変わらないのに…私は家内が用意してくれた安物の衣類を身に着けるだけです。ちなみに、年中素足なので、靴下も靴もはきません。

「住」はどうでしょうか?これはこだわる人と、そうでない人もいるでしょう。「食・衣」に比べて、要する金額のケタが違うので、こだわってもしかたがないとあきらめる人も多いでしょう。でもそういう人達でも、お金が自由になるとなれば、おそらく「住」にもこだわるのではないかと思います。私は「農あるヨーガ生活」を志向した時から、畑と借家を求めて、普通の人達のレベルからすると、ヒドイ暮らしをしてきました。一番ヒドカッタのは、白浜町の県立公園内?の浜辺での半年弱の暮らしでした。水道も電気も無い所で、トタン張りの掘建小屋(ほったてごや)に住んでいました。でもミジメだと思うことはなく、元気に「農あるヨーガ生活」を実践していました。私がこだわったのは建物ではなく、自然環境(水と空気のきれいな所)でしたから。

暮らしの基本である食・衣・住のほかにも、人は色々な物事にこだわります。こだわっているのは‘自分’ですから、自分で気づいてみましょう!異性、趣味(音楽・スポーツ・芸能など)、そしてもっと高尚(こうしょう)と 思われる思想や宗教まで、実にコダワリのオンパレードです。『信心銘』が生まれた背景の仏教の世界にも、コダワリは当たり前に見られます。というより、どんな宗教世界にもコダワリはハビコッテいます。“宗教とはコダワリを捨てることと見つけたり”(←武士道とは死ぬことと見つけたり)を実践する宗教者は、 いったいどこにいるのでしょう…


最初の至道(し(い)どう)無難(ぶなん)ですが、これは、生きていくのはなにもむずかしいことではないということなのですが、むずかしくしているのは何だろうと逆に考えてみればいいですね。そうしますと、唯嫌揀択(ゆいけんけんじゃく)とありますが、これはあれこれいやだと思わなければよい。人生がむずかしく感じられるのは、あれこれいやだと思うからなのですね。例えば天気一つをとってみても、寒いとか暑いとか人はあれこれ嫌だと思いますね。そうすると暑い寒い(寒暑)を人生の一大事みたいに置き換えて、「生きて行くのは辛い。」なんて大仰に考えてしまいます。そう‘思う’から問題が出て来るのです。

しかし但莫憎愛(ただぞうあいなくんば)ですから、嫌いだとか好きだとかこだわらなければよいのですね。寒かったら寒いのだし、暑かったら暑いのだしということです。歳を取ったら歳を取ったのだし、体力が衰えてきたら体力が衰えてきたのだし、それをどうこう思って苦痛に思うからそうなるだけで、放っておけばいいのです。こだわる思いを「ポイ捨て」すれば楽になるのですが、人はこだわる思いを抱きしめてしまうのですね。もしポイ捨て、自分の執着をポーンと捨ててしまって放っておくことができるなら、洞然として明白なり[=無心無我]ですが、ものすごく意訳して、今ここ自己(わたし)スカットスッキリアッケラカンと訳しておいたのです。何もこだわらないでそのまま受容していれば、この世界と人生は見通しが良く、明白な生命活動ができるでしょう。

野生の動物・野生の植物を見てごらんなさい。スカットスッキリアッケラカンには見えないか?ということなのですが、それらを見ても人間は人間の習気として、野生の動物を捕らえてペットにしたり、動物園に入れたり、植物園を作ったり、高山のものを低い所に持って来て大事に育てて、高く売ったり買ったりとか非常にややこしいことをするのですね。さっぱりスカットスッキリアッケラカンになっていません。

それで、すべてよしとはならなくて、すべてがむずかしいと思ってしまうのです。その根本原因は揀択 (けんじゃく)にあります、あれこれいやだと思うということです。人は対象[=見る者は見られるもの]に好き嫌いを必ずくっつけてしまいます。愛好するから高山の植物を高いお金で買ったりしてしまいます。学校に行くのが嫌、それから会社に行くのも嫌とか月曜病が多くなって、自殺は月曜日が一番多いとかオンラインニュースで見ましたが、土日はまあまあで、そして月曜日に、〜〜しなければならない=ネバナラナイが来ると死にたくなる、自殺するということなのでしょう。

この1番にこれから続く以下の 36 番までの要旨が全部含まれていると思います。ですから『信心銘』の教え、禅の教え、あるいは真理の教えを学修する場合に最も大切なのは、この揀択=好き嫌い、愛憎という執着を嫌う=から離れればよい、この一言に尽きると思います。


真理を教える聖典の結論はいつも単純明快である。

生きていくのはなにもむずかしいことではない
あれこれいやだと思わなければよい
嫌いだとか好きだとかこだわらなければ
今ここ自己(わたし)スカットスッキリアッケラカン

ところが、そうはいかない。なぜか?

生きていくのはむずかしい
あれこれいやだと思ってしまう
嫌いだとか好きだとかこだわる毎日
今過去ホカ未来の私なの

真理に背く理由もまた単純明快!