2011年12月17日土曜日

ヨーガヴァースィティ 66 : 8 究極の教えの理解のために 4 エゴ


8 究極の教えの理解のために



http://youtu.be/7dPyf_LigoY


http://youtu.be/UUXIHY4xRRA

4 エゴ


師(マハルシ):
  • 要するに、「私」という思いがあらゆる考え事の根です。「私」という思いの源はフリダヤ hṛdaya(ハート。自己の正体。宇宙我  'I'-'I')です。(Ramana Gita, chapter 5, verse 3)
  • 「私」という思いは、実際のところ他の考え事のような思いではありません。なぜなら、他のヴリッティ vṛtti(考え事)が本質的にお互いに関係が無いのに、「私」という思いは一つ一つの心の活動と一様に本質的に関係しているからです。それ無しには、他の考え事はありえません。それは他の考え事に依存しなくても、自存できるのです。「私」という思いはそれ故に、基本的に他の考え事と異なります。その思いへの探求は、「私は在る I AM」性(しょう)[= Self。全体宇宙生命]という源泉そのものへの探求です。(Maharshi's Gospel, p. 84)
  • エゴが出現すると、すべてが出現します。その消退と共に、すべてが消え去ります。エゴはそれ故にすべてです。エゴを探求することは、あらゆることに対する勝利への道です。(Sayings of Sri R. Maharshi, p. 19)



ラマナマハルシが明快に指摘してくれたように、「私 'I' という思い ahaṁkāra; aham-vṛtti (I-making)」と「私の my」考え事 thinking の違いをよくよく理解しておくべきである。「私の my」考え事 thinking の一つ一つはすべて「私 'I' という思い」の上乗せ upādhi (superimposition) であるが、考え事 thinking は記憶=かつて考えた事(考えられた事 thought)の焼き直しであるのに対し、「私 'I' という思い」はハート hṛdaya(セルフ Self)から発した第一の思いであって、それ自体は考え事としての内容=習気(ヴァーサナー vāsanā = 記憶に染み込んだ潜在印象)を持っていない。禅宗で言う覚触は「私の my」考え事 thinking の手放しであり、「私 'I' という思い ahaṁkāra; aham-vṛtti (I-making)」の発見と解消という目的性を明確には持っていない場合が多い。身心脱落とは言われていても、また吾我の脱落という観念が認められていても、「私 'I' という思い ahaṁkāra; aham-vṛtti (I-making)」と「私の my」考え事 thinking の区別がハッキリ理解されていないように思われる。それで<思いは頭の分泌物>で終わってしまうのがほとんどの坐禅修行者の結末である。