2011年12月8日木曜日

kriyat07 だーラナー dhAraNA 覚触


!!クリヤー・ヨーガ kriyA-yoga の実修に入る前に『ハた・ヨーガ・プラディーピカー haTha-yoga-pradIpikA』1章2章の実修が必要です!!勝手にクリヤー・ヨーガ kriyA-yoga だけを実修して心身の不調に陥っても、当教材の提供者は責任を負いかねますのでご注意ください!!

第7章 だーラナー dhAraNA 覚触


マハーナーディー・しゅッでぃ&ヨーニ・ム ドラー
mahA-nADI-zuddhi & yoni-mudrA

https://youtu.be/hkDPfZgfvsE

[A 定義]


だーラナー覚触の定義は、「ヨーガにおいて一点一心集中(だーラナー)からハズレたのに気づき、一点一心集中にもどること」です。集中の対象を設定し、それからハズレたなら、ハズレたのにすばやく気づけばいいのですが、長々とそれを発展させる場合が多いですね。日常生活で執着を希薄にしておかないと、考えごとを追いかけてしまうというエネルギーのロスが生じます。そういう人は瞑想をするよりも、欲望の多い日常生活の見直しから始めたほうがいいでしょう。そうしながら、カウンセリングを受けたり、その他の学修をきちんとやって、そして一点一心集中できるようになったなら、ハズレたのにもすぐ気づけるようになるでしょう。『ヨーガ・スートラ yoga-sUtra』においてはだーラナーという言葉で出ていますが、実際には覚触という要素が入っているのです。

それから瞑想の定義として、スワーミー・ダヤーナンダAction and Reaction という小冊子の p. 19 に、Meditation is Appointment with Myself.(メディテイションとは自分自身とかかわること[=自分事])、 と書いてあります。どのようにかかわるのかということで、次のように説明しておられます:The meditation that I am talking about is the meditation described by Lord kRSNa in bhagavad-gItA(私が話そうとしている瞑想とは、『ばガヴァド・ギーター』の中で、主クリシナによって、つぎのように定義された瞑想なので す):
Bring the mind to yourself and then do not think of anything else. (心をあなた自身に向けなさい。そしてそれから、それ以外のことは何も考えないように。)= bhagavad-gItA 6.25 自分自身というのは何かといったら、思いです。何かに集中すると同時に出てくる思いを手放しておいて、集中対象以外のことには注意を向けるなということです。自分の体でもいいのですが、体よりもできれば息、息よりも思いです。そして思いの出所と深くかかわっていくこと、それがメディ テイションなのだと、『ばガヴァド・ギーター』にも書いてあるのです。たとえば対象を外に設定して、グルのイメージを思い浮かべるとか、自分の思い以外に対象を設定することではなく、自分自身の思いを対象とするのです。ここの yourself というのは、私自身という思いですね。I-thought(私という思い)、つまりアハンカーラ ahaMkAra(エゴ)あるいはアスミター asmitA(我想)と言われているものです。色々な思いが出てくるのは、「私」から出てくるわけです。「私」という限定意識から出て来るのです。

これは“私の思い”という時、必ず「私」のという限定(仕切り)がくっつきますね。自分の頭に考えが浮かんできて、これは○○さんの考えとは思いません。‘これは私’という思いが根源的なものです。それが myself です。my と仕切った self。全体生命 Self の中で、これは my 私のと仕切っているのです。それは何かと探求していくことですから、ギーターの瞑想の説明と、ラマナマハルシが言っている思いの出所の探求というのは、まったく同じなのです。アートマ・ヴィチャーラ Atma-vicAra とギーターのここで説明されている瞑想方法というのは、まったくいっしょです。ダヤーナンダ先生が言っている趣旨は、“私が言いたい瞑想というのは、ギーターで書かれているように自分自身、つまり私という意識・我想に集中していって、はずれたならまたそこにもどって、この私という仕切りはどこから出てくるのかということを探求することだ。”ということです。それを探求していくと、私と仕切っている意識が消える瞬間があります。すると全体生命 Self が開示・示現されるわけです。ですから瞑想とかヨーガの修行は、何かを獲得することではなく、私意識を喪失することなのです。そこを如浄禅師・道元禅師は身心脱落(しんじんだつらく)と言いました。この身心から私意識(吾我)が脱落していくこと、それが坐禅だと道元禅師は言ったのですから、道元禅師が言っているのも、このクリシナ kRSNa 意識のあらわれであるギーターに書かれている瞑想の説明はいっしょですし、祗管打坐(しかんたざ)とギーターの瞑想法は同じということになります。

このように言うと道元禅師派は反対するし、ギーター派も反対するのです。それは全体生命 Self というものを覚智していないからです。全体生命を覚智した者同士は、宗派を超えてみんなわかりあっているのです。それをわからない人たちは、未熟というよ りほかないです。私意識が解消されると、全体生命しか無いとわかるのです。これについては前から言ってきたのです。いつごろからハッキリ言い始めたかとい うと、1991 年の 11 月に「心の仕組みとラージャ・ヨーガ」の集中行をした時に、いちばん最初に、ヨーガ・宗教は自分意識の解消と説明しておいたのです。反応はほとんど無かったのですが…それからミニヨーガヴァースィティの最後の遺言「ともに」(91.11.28) の中で、“あるのはともにたったひとつの全体生命と気づかされました”と書いておいたのですが、皆さんはヒトゴトだと思って聞いて(見て)いたのでしょう。今回はヒトゴトではなく、私意識をハズセば、全体生命智=アールシャ・ヴィディヤー ArSa-vidyA 聖賢方の真智が手に入ると、それぐらいはおぼえておいてください。


https://youtu.be/xxGnGWvpkiM

[B 松果体]


さて、具体的に思いの出所を探求するのに役に立つヨーガのテクニークは何か、ということですが、ラマナマハルシみたいにいければいいのでしょうが、そうもできない人たちは、マハー・ナーディー・しゅッでぃとヨーニ・ムドラーを利用して、思いの出所というよりも、今出たという一瞬を探求する方法が役に立つかもしれません。


マハー・ナーディー・しゅッでぃ mahA-nADI-zuddhi महानाडीशुद्धि を理解するのに、ジョーハリ:CHAKRAS の p. 21 の図が有益ですが、ちょっと図解説明上のミスがあるので、訂正しておきます。この図に、Pineal gland (ziva) と書いてありますが、松果腺(松果体)のことです。その矢印がとんでもないところに入ってしまっています。Pituitary gland は脳下垂体ですが、その後ろのほうに Pineal gland がありますので、その後ろのほうに矢印を引っ張っておいてください。たぶんこれを描いたイラストレーターが、線をまちがって入れたのでしょう。これを参考にして、眉間(星印)から松果体をねらってやや上向きに入っていって、息をすいながらホーンと唱える。それから息をはきながらソーと唱えてもどってくる。 あるいはソーと入って、ハムでもどってくる。それがマハー・ナーディー・しゅッでぃの通り道です。



1999.11 クリヤー・ヨーガ kriyA-yoga 第2回講習会から
マハー・ナーディー・しゅッでぃ mahA-nADI-zuddhi と Here-Now プラーナーヤーマ実修


もう一つの図は、バーバー・ハリダーサ Baba Hari Dass: Ashtanga yoga, Primer からです。眉の上方がアーギヤー・チャクラの前面部 = kUTa(クータ。前額中央)で、この中心から少し上向きに入っていって、その奥に Shri(zrI しリー)と書いてある地点まで進みます。これがマハー・ナーディー・しゅッでぃの通り道です。しリー zrI というのは本来は光輝という意味ですが、光り輝く存在のお方という意味での敬称としても使われます。手紙では○○様の様としても使われます。ここでのしリーは、メンタル体の中心に光り輝く光輝という意味です。(しリーには他に女神、らクシミー lakSmI、富、繁栄などという意味もあります。)これが肉体では松果体に対応しているのです。そこに3つのバイパスが出ていますが、下のほうに、Tamas Guna (tamo-guNa) と Rajas Guna (rajo-guNa)、そしてその上の、中間を通っているバランスのとれた Sattva Guna (saattva-guNa) というのがありますね。その下を通っているのがスシュンナーで、アーギヤー・チャクラと前面をつなぐスシュンナーの続きです。スシュンナーはこのように、背面を通っているのと前面を通っているのと2本あります。霊的に大事なのはこの背面を通っているスシュンナーで、アーギヤーの前面からこのしリーに行って、あとずうっと背骨ぞいにおりていくほうです。クリヤー・ヨーガの多くは背面のスシュンナーを使います。ここで前面に分かれているほうは、あまり使いません。背面を上げていっておりていく場合は、この前面も使ってプラーナが流れていきます。

この図を見てどうやったらいいかというと、肉体的には眉間表面部とつむじをつなぐ感じで昇っていって、途中でストップするのです。頭の中心からやや奥です。少し水平よりも上に行って、帰りは上から下におりてくるという感じでマハー・ナーディー・しゅッでぃをすると、松果体を刺激できるのです。それがむずかしいので、ふつうは眉間の奥に入れてと言っているのです。そうしても、いずれつむじとの中間で白い光が視えますが、実はその白い光というのは奥にあるので、眉間前面のスクリーンに投射されて映るだけなのです。タントラ・ヨーガのほうでは、生気体やその奥の精妙体とそれらの現象も解明されて、色々な名前がついているのですが、固定的にとらえることができる肉体構造ではありませんので、解剖しても出てくるわけではありません。プラーナの流れや道筋ですの で、それはそのまま肉体次元には出てこないのです。(機能的に対応する神経系統やホルモン分泌などは、当然有るのですが。) 脳波をとったりというような方法だけでははわからないのです。ただ自分で体験することはできるわけです。


https://youtu.be/gt1xteLP2kk

[C しゅッでぃ]


それからそれを深めるために、ヨーニ・ムドラー yoni-mudrA で目を閉じて、マハー・ナーディー・しゅッでぃをしながら、頭の中心(松果体)にだーラナーして、思いの瞬間把握(=認識)と手放しをしていくと、思いが停止する時がやってきます。その思いの停止の瞬間を相続させることができるように修行していくと、そこからが本当のでぃヤーナ dhyAna(瞑想)です。思いが発展するのではなく、思いが途絶えたのがずうっと続く、それが思考停止です。それに入ったときには、ケーヴァら・クンばカ kevala-kumbhaka が起きやすいのです。息が自然に止まって、息が呑み込まれたようになって、肺呼吸をしていない。皮膚呼吸だけみたいになる。坐禅が深まった人たちでも、そういうふうに皮膚呼吸だけになったりしますね。ただ脳を生かしている内的な呼吸は行なわれています。完全に止まったら、それはほんとうに死んでしまいます。

さてそうしたなら、マハー・ナーディー・しゅッでぃをしますから、任意の坐法をしてください。眉間表面部に意識を集めておいてください…眉と眉の間を見ようとすると、視線がちょっと上向きになりますね。気持ちいいなあと思うところから、やや上ぐらいでしょう。できる人は舌の巻き上げをして、けーチャリー・ムドラー khecarI-mudrA も入れておいてください。できにくい人は無理やりする必要はありませんので、舌先を上の歯の根元に押し当てておくジフヴァー・バンだ jihvA-bandha でけっこうです。ジフヴァーは舌、バンだは締めつけること。舌をそこに当てておいて動かさないことが大事です。どこに固定してもいいのですが、舌を動かさないで、それから目はつむっていても視線をキョロキョロ動かさないことが大事です。そうしておいて、いったん息をはいていってください。息をすいながら、眉間から頭の中心のほうに意識を送り、息をはきながら頭の中心から眉間表面のほうに意識をもどします。慣れていない人は水平でもけっこうです。慣れている人はもうちょっと上向きに入れて、頭の中心よりもうちょっと奥まで入れて、そこからもどすというふうにしたらいいと思います。マントラを使いたい方は、入息でも出息でもオームと唱える方法、あるいは入息でソー、出息でハム。又はそのソーハンを逆にしたハンサを、ベンガル風になまったホーンソー。では、しばらく、マハー・ナーディー・しゅッでぃをしてください……

マハー・ナーディー・しゅッでぃだけでもの足りない方は、その前にプラーナ・しゅッでぃを付け加え、プラーナ・しゅッでぃ&マハー・ナーディー・しゅッでぃにするといいです。両方の鼻から息をすって眉間に意識を導き、それからその続きとして眉間から頭の中心に意識を入れてやる。そして頭の中心から眉間にもどって、その後両鼻を通じて息が出ていくまでを覚智する、という行法です。プラーナ・しゅッでぃ&マハー・ナーディー・しゅッでぃをしていって、頭の中心に意 識が移っていったと思う人は、頭の中心をとらえておいて、そこで息をすうときにも、息をはくときにも、オーム・オーム・オーム…と、自分の好きなテンポでけっこうですから、オームを心の中で反復します。そしてそこから意識をはずさない。たった一点に集中して、そこからハズレたならまたそこにもどす。これでだーラナー覚触に入るわけです。それができにくい人はクリヤーを利用したあと、頭の中心に固定する。どんな方法ででも、だーラナー覚触に入っていけばいいのです。そのままだーラナー覚触が続く方は、ぼくの説明を無視してそのまま続けてください……

頭の中心に意識を固定しておいて出てくる思い、それは何かと考えないでください。出てきたら手放す。それで行が終わったあと、ああいう思いが出てきたな、そうするとそれにまつわる欲望があるのだと考えるのはかまいませんが、行の最中は出たな→手放す式の覚触百千万発だけです。


https://youtu.be/vmrVupXc7WU

[D ヨーニ・ムドラー]


ヨーニ・ムドラー yoni-mudrA は、ハた・ヨーガのテクニークとしては、サルヴァ・ドヴァーラ・バッだ sarva-dvAra-baddha とも呼ばれています。サルヴァ=全部の+ドヴァーラ=ドアー。ドヴァーラは何かというと、目・耳・鼻・舌・身(皮膚)という感覚器官のことです。バッだ=しめつけで、それらを全部閉じてしまうことです。たとえば親指で耳を閉じて、それから目は2本の指で閉じる人もいれば、中指だけで閉じる人もいます。鼻は薬指で、口は小指で、さらに第六根(頭脳)まで入れたい人は人差し指を象徴的にひたいに乗せて、六根を全部閉じてしまいます。第六根を入れない人の場合には、人差し指を目に当て、中指で鼻を押さえ、それから薬指と小指で口を閉じるという方法もあります。どちらでもいいのです。六根を強制的に閉じてマハー・ ナーディー・しゅッでぃをすると、もう頭の中心にしか意識が行かない、音も聴こえてくる、光も視えてくる。それで頭の中心に集中しやすくなるのです。それをタントラ・ヨーガ、クリヤー・ヨーガのほうでは、ヨーニ・ムドラーと呼んでいます。サルヴァ・ドヴァーラ・バッだのほうは、ハた・ヨーガの初歩のテクニークです。ヨーニは「子宮」も意味するのですが、「根源的なエネルギーを内包しているもの」をヨーニと言うのです。宇宙のヨーニというのがあり、ヒラニヤ・ガルば hiranya-garbha(宇宙子宮。宇宙心)といいますが、そこからヒヨコが出て、こういう宇宙が展開しているという意味です。そういうところにもどっていくためのムドラーです。これをヨーガーナンダの S.R.F. ではジヨーティ・ムドラー jyoti-mudrA 呼ばせています。ジヨーティ jyoti(s) は光(輝)という意味です。


では実際にやってみますが、鼻は実際に閉じなくていいのです。鼻のところに当てておくだけでいいのです。親指を耳の中に入れますが、ほどほどでいいのです。人差し指をまぶたに、あまり強く押さえないように軽く当てがうだけです。両中指を鼻翼(びよく)に軽く置いておくだけ。薬指と小指で唇の両端、わきに軽く当てておくだけです。口も閉じておいて、両方の鼻から息をすって意識を眉間に導き、それから頭の中心に進入します。息をはくときには頭の中心から眉間に出て、その後両鼻を通じて出してやります。このようにしばらく行なってください。それでウッジャーッイー・プラーナーヤーマ ujjAyI-prANAyAma をすると、耳を閉じていますからウッジャーッイーの音がよく聞こえるでしょう。のどをこするような感じの音が。その音に集中していってもいいのです。息をすったあと、自然に息を止められる人はちょっと止めて頭の中心にだーラナーして、それから息をはいていったときに、もしできる人はウッディーヤーナ・バンだ uddIyAna-bandha(腹部引き締め)とムーら・バンだ mUla-bandha(会陰引き締め)も入れて、ジャーらンだラ・バンだ jAlandhara-bandha(のど引き締め)は自然に入りますね。あごをぐっと引く必要はありません。
また息すって頭の中心に行ったときに、クンばカしておいて、そのときにもムーら・バンだ、ウッディーヤーナ・バンだが入って、ジャーらンだラ・バンだも意識の上でしておいて、あらゆるドヴァーラ(門)を閉じて、頭の中心に集中します。ひじが疲れてきたら、休みながらでけっこうです。このヨーニ・ム ドラーには五感を制御するということ、それからトリ・バンだ tri-bandha(バンだ・トラヤ bandha-traya)=3つのバンだが入って、頭の中心にだーラナーして、プラーナーヤーマとしてはプラーナ・しゅッでぃ&マハー・ナーディー・しゅッでぃがはいるということで、あらゆる行法が入ってしまいます。それを手をはずした形で、無形のヨーニ・ムドラー arUpa-yoni-mudrA としていつでも行なえればいいのですが。

つぎに息をはくだんになったら、手をはずして、手のかっこうをしていると思って、すべてのドアー・心の窓(五感官)がふさがれていると思って、息をすって頭の中心に意識を導いて、息をはきながら眉間表面部に出す。あるいは、両方の鼻から出してやる。ヨーニ・ムドラーをしていると思って、マハー・ナーディー・しゅッでぃ、あるいはプラーナ・しゅッでぃ&マハー・ナーディー・しゅッでぃを行なうのです。最初は形式的にやって、次は無形のヨーニ・ムドラーをして、思いの出所に向かって意識の求心的な動きをしていく。それが、ダヤーナンダ先生がギーターの 6.25 を説明した "Appointment with Myself"(自分自身とかかわっていくこと)、ということです。