2011年12月8日木曜日

kriyat09 煩悩の習気抜きとしての覚触


第9章 煩悩の習気抜きとしての覚触


http://youtu.be/U6QrswkN8sQ


http://youtu.be/Ec1oJlYD-6Q

[A 転識得智]


ここからガラッと唯識に変わって、そのあとに修行と転識得智(てんじきとくち)が続きます。ここで、『クリヤー・ヨーガの理論と実修』の目的である修行と転識得智について、ざっと説明しておきます。唯識のほうでは、こうしたら識が智に変わる、つまり凡夫の分別知が聖者あるいは仏の智慧に変わるというのが、非常にハッキリ説明されています。


図の右下に妙観察智(みょうかんざっち)pratyavekSA-jJAna とあるでしょう。妙観察智というのは第六識(ヨーガの用語でいうとマナス manas とブッでぃ buddhi を合わせたもの)、大脳の分別知識が智慧に変わったものです。そのあとに、第七マナ識(ヨーガで言うとアハンカーラ ahaMkAra)において私意識が取れるので、すべてのものは平等であるとわかる平等性智(びょうどうしょうち)samatA-jJAna という転識得智のプロセスが、第2段階として起きる。そのあと第3番目は大円鏡智(だいえんきょうち)Adarza-jJAna と書いてありますが、私が・自分がという意識が浄化されると、その自分の記憶のたまっているところ(第八識)のアク抜きが行なわれて浄化される。全過去の 記憶が浄化されるということは、それは私という仕切られた存在の体験ではなく、全体生命の体験であったとわかる大円鏡智が得られることです。そこまで行く と、そこからの思いが出てきて体をつき動かすので、第4番目の成所作智(じょうしょさち)kRtya-anuSThAna-jJAna という転識得智が行なわれます。ここで最終です。そこまで行った人は、その肉体がすべて識が智に転じたものに従って行動するので、有根身仏(生きぼとけ)・キリスト・クリシナ kRSNa・マハー・ムニ mahA-muni になるのです。

これを起こすために、どういう修行が必要になるかということで、この教材を作ったのです。今度は上の列を見ていってください。最初に愚者と書いてあるでしょう。愚者が求道者(ぐどうしゃ。きゅうどうしゃ)になるためには、ヨーガの修行を一所懸命することが必要です。ヨーガに縁づいて、まだグシャッとしている人がいますが、求道者にならないといけませんね。求道者になって初めて第六識が浄化されて、妙観察智が出るのですから。愚者から求道者になって熱心に修行を続けるためには、第1章を理解して、第2章から 第6章までの修行がまず必要です。ですから第2章の有根身・末梢神経から背骨・中枢神経集中というところから、第6章のメンタル体へのクリ ヤーまでを一所懸命していく人は、愚者から求道者になれるのです。そしてメンタル体で何をしなければいけないかというと、第7章のだーラナー覚触なのです。だーラナー覚触をしてそれに成功した人は、妙観察智を得ることができる。凡夫から仏・キリストになるための第1イニシエイション(奥義伝授)をパスしたということです。ヨーガのほうの内的心理器官 antaH-karaNa で言うと、そこまででマナスとブッでぃを浄化することができるということです。そのつぎの転識得智を起こすためには、煩悩のアク抜きと善の熏習(くんじゅう)が必要です。これをして成功すると、第七マナ識が浄化され、平等性智を得ることができるのです。これから行なう第9章と第 10 章というのは、平等性智を得るために役に立つ行法であると理解してください。

第2章から第6章までは、唯識でいうと第六識、ヨーガでいうとマナスとブッでぃを浄化する意味を持っていると理解してください。理解した上でやっていただきたいのです。アーサナをどのような方向にもっていくのかを理解した上で、第2章から第6章まで進めていって、最初の転識得智を実現するとおぼえておいてほしいのです。これから第9章と第 10 章を学修しますから、私・私…という仕切りをハズスにはどうしたらいいか、あるいは、ハズシたお方はどういう働きをしているのかということを知って、それ に近づいていく努力をしないといけないのです。第 11 章の図解は、般若心経講座で利用した図解に書き加えて構成しました。そして第 12 章から第 16 章、さらに第 20 章までいくと、照見五蘊皆空と成り、転識得智の妙観察智から成所作智までいくようになっているのです。修行に成功すれば、ということです。ですから今回作った教材を全部実践すると、全八識が智慧に変わるということです。成功すればの話ですが。ですからこれだけできれば、本当は充分なのです。これだけだと不安だから、皆さん色々な参考教材を買うでしょう。買って積んどいて、やらないでしょう……

http://youtu.be/aEFOTOH1I90

[B 煩悩アク抜き]


それでは第9章の本題に入りましょう。今までは思いを手放す・手放す…ということでした。では何を手放さなければいけないのかというと、仏教でもヨーガでも煩悩(クれーしゃ kleza)と呼ばれているエネルギー形態です。煩悩も善もエネルギーです。全部精神エネルギーです。エネルギーであるからにはトランスフォーメイション(転換・変容)させることができるわけです。粘土をこねて象を作るとか、キリンを作るとか、また元にもどすとかできるでしょう?銅とか錫(すず)を用いてこういう鈴(りん)を作るとか、溶解してまた別な形にすることもできるし、すべてエネルギーというのは、熱・その他を利用して別なものに作り変えることができるのです。ですから、ぼくたちが持っている執着というエネルギーも、別なものに作り変えることができるのです。努力すれば、凝り固まっていてもできるのです。

ほどけないエネルギー形態というのは、この宇宙に存在しないのです。無常(常ならず変化する)という性質を持っているので、変化しないというものは何も無いのです。ですから、意志の力を働かせて、正しいプロセスを経たなら、必ずトランスフォーメイション(転換・変容)できるのです。それでまず煩悩のアク抜きをしていく、そのための覚触ということです。“坐禅はアク抜きだ”と、加藤耕山老師という偉い方が言われました。これは名言ですね。柏樹社から『坐禅に生きた古仏耕山』という本が出ています。澤木老師の言葉もすごいですが、この加藤耕山老師の語録もすばらしいです。


ではどういうアクを抜くのかといったら、仏教では煩悩といわれているものを抜くわけです。今度の図では、唯識だルマ図から煩悩だけに関係ある部分だけを残して、ほかは消したのです。これを見て内容がわかって、思い当たるふしがある人ほど、煩悩のアクが強いということです。ああこれもある、これもあると確認できる人は、煩悩をたくさん持っているということです。ところが逆説的ですが、それを確認できる人はアク抜きをしやすい人です。これは私に関係ないと見ている人は、それが全部有るのです。気づいていないだけです。私は人を恨んだりしません、怒りもしませんという人は、まあ救いようがないと思います。気づいている人は、非常に救われますね。気づいているので、手放すことができるからです。何かを持っていて、それを放(はな)してくださいと言われた時、持っていると知っているから放すことができるのです。ボールペンのノックをパチパチやったり、貧乏揺すりをする人がいますが、本人は気づいていないのです。この図を見て、私には縁が無いという人は、‘縁無き衆生は度しがたし’ですね。

それで、この図の中の何を選んだらいいのかですが、全部を選ぶのは大変ですね。第七識のところに、7(我)(ち)とあります。それから 10 我愛(貪)とあります。その我癡と我愛は第七マナ識においても活動して、第六識においても活動している。けれども第八識には無いものです。ですから第七マナ識・アハンカーラ(私。エゴ)に非常に関係ある煩悩だとわかりますね。それから 38 (怒り)、これら三つが貪・瞋・癡(とんじんち)=三毒と言われている煩悩です。

または、自分の瞋(しん)・怒りを確認したらいいのです。‘あなたは頭が固いですねえ。’と言われると、誰でもムカッとするでしょう。それは「私」が有ると思っているからです。あなたは頭が固いですねとか、あなたはだらしないですねと言われたら、全体生命として活動しているその中の細胞が、どうしてかこうなっているのですと、にこにこできていたら、怒らなくてすみます。あるいは、その人はそういうことを言いたい欲望を持っているのだろうと思って、静かにしていることはできるでしょう。ムカッとしたり、いやな顔をしたり、傷つくのは、「私」が有るという思いが根底にあるからです。我癡があるからなのです。このように見ていくと、一切の煩悩は全体生命にではなく、「私」が有ると設定している我癡に基づいているとわかるのです。

ふつうは、自分の体を私だと思っているのです。この皮膚が先端、境界ですね。皮膚から外は私ではない、皮膚から内は私だと思っているので、五官の眼耳鼻舌身のうちの身=皮膚(触覚)を自分だと思っている意識が一番強いのです。それで、皮膚が好んでいるものには触れたい、嫌なものは避けたいという like・dislike(好き嫌い)が皮膚によくあらわれるのです。皮膚というのは全身にありますし、末梢神経が全部めぐっているでしょう。目で見たもの、耳で聞いたものは比較的アタマで囚われますし、鼻とか舌で囚われるのはムーらーだーラ、スヴァーでぃシたーナ・チャクラの欲望が強い人です。皮膚で囚われるというのは、体を私だと強く思っている人ですね。

たとえばけーチャリー・ムドラー khecarI-mudrA(舌の巻き上げ)は、鼻と舌と皮膚をコントロールするのに有効だとされ、それから目と耳をコントロールするのはヨーニ・ムド ラー yoni-mudrA が有効だと言われています。耳を閉じて、目でも見ないようにして、自分の思いに意識を集めるわけですから、目で見て耳で聞くものに囚われないという形を、ヨーニ・ムドラーは強制的に作るわけです。ヨーニ・ムドラーをして、けーチャリー・ムドラーを加えるのを、ブラフマ・ヨーニ・ムドラー brahma-yoni-mudrA と言います。ブラフマ・ヨーニ・ムドラーをしますと、眼耳鼻舌身のいずれをも抑制(コントロール)することができるのです。ですからタントラ・ヨーガの 方法は、唯識に照らし合わせてみても、自分自身の構成要素をいかにコントロールするかと、非常に科学的にできているのです。実修に成功すれば。それで、ブラフマ・ヨーニ・ムドラーをしておいて覚触すれば、六根を制することができるわけです。6番めの第六根は、この頭です。そして、第六根に対してムドラーを するのをはずしても覚触できるのが、サハジャ・ブラフマ・ヨーニ・ムドラー sahaja-brahma-yoni-mudrA です。サハジャは、本来のという意味です。ブラフマン(神)のごときヨーニ・ムドラー。そこまでいったら、ラマナマハルシなのです。何もしなくても、すべてコントロールできているのですね。

そうしたなら、貪と瞋のふたつを選んでみましょう。貪ると瞋る(怒る)。これからだーラナー覚触しながら、どういうことを自分は貪っているか、あるいはどういう場合に怒りやすいかということを観ていって、それを手放すトレーニングをします。
  • まず 10 ですが、何かを貪ろうとしたら、貪らなく てもいい、と覚めるのです。こういうテープコーダーが欲しい、ミニディスクも欲しい、色々な教材も欲しいと思っても、全体生命を覚智できればいいのだから、それに役に立つものだけで知足しておこうと、貪を無貪に転じていきます。貪を転じて無貪にすれば、煩悩ではなく善なのです。現代の聖者と言われ る方たちが、貪っているかいないかを見ていったらいいのです。色々な団体の先生たちを見てごらんなさい。信者さんを貪って、土地物件を貪って、寄付を貪って……
  • それから 38 ですね。気質として両親から受け継 ぎ、自分でも持ち越してきて、かなり短気なところがあるので、ハン先生の“息をすって私は静か、息をはいて私はほほえむ”でだいぶ助けられています。だんだんトレーニングしていって、少しずつ減ってきていますが、やっぱり怒ることがあるのですね。家内に対して怒ったりとか、家内がぼくに怒ったりとか、そう いうことはありますが、だんだん少なくなってきています。修行しないと、そういうことは増長するだけだと思います。

http://youtu.be/tRJwLawSgn8

[C 煩悩アク抜き]


怒るのは、自分のチッタ・第八識に、怒りの種子(記憶)と習気(ヴァーサナー vAsanA)が残っているからです。それを無瞋にしていく。相手がそう言うのは、そういう能力しかないからだと思って、手放していけばいいのです。右のほっぺたをひっぱたかれたら左を出すとか、ラマナマハルシみたいに、盗賊に右の太ももをぶたれたら、左脚も打ってもいいと落ち着いて言えるのは、カッとしないという完璧な種子を持っているからです。つまり平和・peace・しゃーンティ zAnti です。第 20 章はしゃーンティがテーマです。平和・全体生命としての静まりを実現する寂黙の聖者になることができるように、最後に平和の祈りを出しておいたのです。


  • わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
    あなたというのは全体生命のことですから、全体生命の平和の道具としてお使いください。人に悪口を言われても、自分の心が平和であればよいのです。全体生命から託(たく)されたこの心が平和であることが、全体生命に対する「ばクティ bhakti」(献身。帰依)です。
  • 憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、
    いろんな憎しみ、いさかいがあるでしょう。憎しみがあったら愛を、いさかいのあるところに許しを。
  • 分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。
    そういう道具として私のこの心身をお使いください、神よということです。
  • 慰められるよりは慰めることを、
    カウンセリングしてもらうよりも、カウンセリングしてあげられるように。
  • 理解されるよりは理解することを、
    この私をわかって欲しいとワガママになるよりも、人の悩みなどを理解できる人間になることを。
  • 愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。
    もっと自分を愛して欲しいと思うよりも、人を愛するように私をあらしめてください。
  • わたしたちは、与えるから受け、
    自分のものと思って持っているもの、お金でも、物でも、知識でも、智慧でも、人に与えるから、全体生命から平和をいただけるのです。
  • ゆるすからゆるされ、
    このあやまちは許せないとか、あの人の言ったことを許せないとか、そういうことを手放すから、全体生命から私の存在が許されるのです。
  • 自分を捨てて死に、永遠のいのちをいただくのですから。
    自分というけた分別意識を捨てて、自我意識・ワガママなところで死ぬから、限定のない永遠の命を、この心身にもいただけるのです。それには心が静まることなのです。ですから、怒りが無いこと、貪りが無いこと、そのへんが決め手になると思いますので、だーラナー覚触に入って貪りが出てきたら、私は貪っている、あるいは 貪ってきた、怒ってきたと、そういうことを確認してください。こういう方法を覚えて、煩悩を次々と手放していくのと同時に、善の熏習(くんじゅう)、 たとえばアッシージのフランチェスコの生涯を歌ったような詩・祈りによって、今度はいいものをいただいていく。自分からいらないものを出していくかわりに、いいものをいただいていくという善の熏習をしていって、どちらもいっしょにやっていくことによって、第六識の転識得智をして、それをサンスカーラ saMskAra(=ビージャ bIja。種子)、ヴァーサナー vAsanA(習気)として残していくわけです。第八識に入れてやるのです。そのあたりからが修行です。
(ではアーサナを簡単にして、マハー・ムドラーにつなげていきます……)[→講習会での実修]
『ハた・ヨーガ・プラディーピカー haTha-yoga-pradIpikA』の章を充分に実修し、またクリヤー・ヨーガ kriyA-yoga の基本も実修した人達の参考用にムービー教材を提示しますが、準備のできていない方々は安易に取り組まないでください。準備のできていない段階の人達がこれらの実修に取り組んで起こりうる心身不調などに関して、教材提供者は責任を負いかねますので警告しておきます。
mahAmudrA マハムドラーの6段階

http://youtu.be/rDIVWEyqbb8

[D 考える瞑想]


…目をつむって頭の中心に意識をすえておいて、今度は「考える瞑想」です。自分はどのように貪っているか、貪ってきたか、自分はどのように怒るか、怒ってきたかを考えてください。貪か瞋かどちらか。貪りか怒りかのどちらかを選んでください。あとで交替してもいいですから。たった一つのテーマを選んで、それに集中するなら、自分の煩悩のうちの貪のあり方、あるいは瞋・怒りという煩悩のあり方、それがだーラナーの対象です。だーラナー・だーラナー…して、それからソレタなら、また自分の貪りとか怒りに意識を合わせて、どうしてきたのかを考える。考えてもそれは dhAraNA だーラナー(一点一心集中)なのです。設定対象がありますから。しばらくは内観的に、過去の自分の貪り方、あるいは現在の貪り方、あるいは怒り方とかを考えてください。あとで手放していくほうに入っていきます……

日常生活の自分の生き様を見て、何を貪っているか、どういうときに怒るかと考えてください。自分が貪っているとか、怒っているということは大体わかりましたね。それをしていないと思っている人は、もう見込みが無いと思います。それをしない人は、ここにはいないと思いますので。そうしたならその分析はやめて、貪りなら貪りでもいいです。あるいは怒りなら怒りでもいいです。もう貪らなくてもいいのではないか。あるいはもう怒らなくてもいいのではないか、と考えることができるかどうか、しばらく考えてください……

今皆さんが、何か欲しいものがあったとしましょう。新しい家とか、新しい車とか…何でもいいですから、欲しいと思っているものがいくつかあるとします。そうすると、それを求めなくとも自分はやっていけるのではないだろうかと考えてみてください。たとえば、車を買い替える必要は無いのではなかろうか。服も今あるもので充分ではないか。交友関係も今のままでいいではないか…もっともっとと欲しがるよりも、このままでも知足できるのではないだろうかと考えてみてください……

あるいは怒りをテーマにしている人は、ああいうことを言われてくやしかったけれども、今度言われても、そういう人はそういうことを言う程度の心しかないのだから…自分はそれに対して反応して怒ってきたけれども、もう次は怒らなくてもいいのではないか、そう言われてもがまんできるのではないか、という可能性を見てください。そうできるのではないかという可能性を考えることができる人は、トレーニングしたら絶対できるのです。今とてもできないという人は、将来もできないでしょう……

さて、皆さんが選んだのは、軽い貪の対象だったと思います。では今度はドカンといきますと、マハー・ムニ・バーバージーが現われて、“おまえの家族を出しなさい。全財産を出しなさい。”と言われたとしたら、出せるでしょうか?それはとてもできないと思ったら、皆さんは貪っているのです。それの元になっているのが、‘これは私 aham であり、これは私のもの mama だ。’というコダワリなのです。それが我癡(がち)の実態です。私と仕切っている我癡、私に所属しているものを離したくないという我愛(があい)なのです。それを無くすことができないなら、転識得智はできないということを、唯識は教えているのです。最初簡単なテーマを選んでみたらできそうだけれども、ドカンとくるとできないでしょう?その程度によって、皆さんのアクの強さが違うのです。やり方はわかりましたか?それをすべての煩悩でやってみるのです。いずれの煩悩を選んでも、元をたどっていくと我癡に行くのです。これは私だと仕切っているところに行くのです。いろんな煩悩をとらえては、仕切っているという自分に目覚めていくことです。それが仕切らない自分である全体生命を実現するプロセスなのです。

最初に見たマハー・ムニ・バーバージーの忠告、グルに -- グルというのは全体生命の代理者ですが -- 何でも自分の持っているものを差し出すことができなければ、クリヤー・ヨーガをする資格は無いということでしたが、資格が無いとわかってきましたでしょ う。やっかいな亭主や女房だから持っていってほしいというのも、煩悩なのですよ。それもだめなのです。一緒にいてもいい、持っていかれてもいい、神のみ心のままに。そこまでいかなければだめだということです。とてもできないとわかってきましたでしょう。これからが修行の始まりです。