2011年12月7日水曜日

kriyat10 善の熏習


第 10 章 善の熏習



http://youtu.be/xO7elKNl4Kk


息の観察をしながら、最初から思いに気づき・手放す。思いがどう出るか、手放せるか、それだけに集中して、アーナーパーナ・サティ AnApAna-sati・息の観察をしながらのだーラナー覚触に入ってください…このように静まった身心を、日常生活においても発揮していく。瞑想中の静まりをその他の日常生活の行動にも持ち越していけば、瞑想中に手放せるものは、日常生活においてもだんだんと手放せるようになっていきます。こう静まっているときには何ともないけれども、目をあけて立って色々な行動をしているときにはむしょうに腹が立つとか、むしょうに食べる・飲むのを貪りたくなる。それは欲望の習気(果たさなければいけない業エネルギー)が強いからです。アク抜きである坐禅(瞑想)を、毎日朝夕 30 分ずつでもやっていって、そのときの雰囲気を日常生活に及ぼしていくようにします。マインフルネスを日常生活にも及ぼしていくわけです。怒ろうと思ったけれどもストップできたとか、衝動買いしたくなったけれども思い止まることができたとすると、その体験記録が、皆さんの中にサンスカーラ saMskAra(体験記録としての記憶)・ヴァーサナー vAsanA(習気=記憶の特徴・性質)として蓄積されていくわけです。そういう無執着の精神エネルギーが増えていき、それによって行動が変わっていき、 前の煩悩の習気はアク抜きできて、新たな善の熏習が可能になるのです。その結果が転識得智(てんじきとくち)として段階的に発生していくことになります…


善の熏習の図をご覧ください。ホトケた人たちというのは、こういう善と分別されるものが、全八識にしみこんでいる。第六識では顕在意識として、第七・第八識では潜在意識・無意識として、善がしみこんでいる。煩悩を抜くだけでは、必要十分条件にはなりません。十分条件にするためには、善で第六識を満たしていかないといけない。そうすると、それは転識得智の第1プロセスと第2プロセスに簡単につながっていくのです。

さきほどは貪に対して 26 無貪(むとん)、それから瞋に対しては 27 無瞋(むしん)をとったらいいということだったのですが、そのほかにたいへん効果的だと思われるのは、30 軽安(きょうあん)です。身もやかに・心もらかにという軽安が善人のひとつの証拠になります。罪を背負っていると重いでしょう。おろすと軽安になるのです。それで明るく前向きに生きていけるようになります。偽善者というのは重荷を背負っていますので、やっぱり顔は緊張しているものです。表情で見たらいいのです。



ですからどんな善いことをしていても、まじめなことをしていても、表情に軽安ではないもの、苦悩が見えていたら、煩悩のどれかがその人の心の中にあるということです。軽安になれる場合と、苦悩の表情を呈する時があるでしょう。怒ったり、軽安になってみたりと。それが安定していて、軽安・軽安・軽安…の瞑想になればいいのですが。ラマナマハルシの表情とか、好きな聖者の軽安な写真を飾ってよく見て、自分の筋肉をほどいていったらいいですね。

そういうことを念頭に置いて説明しますと、これらの 11 の善は“自分にも人にもやさしくなれることを思い・話し・しましょう。”と簡約できると思います。この第六識において、自分にも人にもやさしくなれる、そういう気持ちをもって考え、そして話し聞き、そういうことを実践しましょうと。自分が人のことを考えるときにも、やさしい思いをもって、それから話しかけるときには、やさしい言葉で、するときにはやさしい行為で。たとえばやさしい表情で話している人、ハン先生とか、イーしワラン先生のテープを聞くたびに、ぼくの心はなごみます。そういうふうになりたいと思ってよく聞くのです。ぼくは短気ですから、なるべくそのアク抜きしたいと思って、善の熏習をするために、耳からハン先生とイーしワラン先生のオーディオを聞いたり、ビデオも持っていますので見たりして、ああすばらしいなあ、こんなふうになれたらいいなあと、あこがれを持って善の熏習を少しずつしているのです。そういう聖者を皆さんも見つけて、本を読んだり、写真をながめたり、オーディオテープを聞いたり、ビデオテープを見たりして、善の熏習の助けにしていったらいいでしょう。

さっき言いましたように、11 の善を簡単にまとめると、“自分にも人にもやさしくなれることを、思い・話し(聞き)・しましょう”ということです。



もう少し理論的にということでしたら、第八識のところを見てください。51 の心所(心の働き。チッタ・ヴリッティ citta-vRtti)の内の5遍行が書いてあります。
  1. (そく)sparza は善の熏習の立場からは、善いものに触れると理解したらいいと思います。悪漢に触れるのか、聖者に触れるのか、自分で選んでください。悪漢とか、聖者とか、区別する必要はないのかもしれないけれども、今のレベルの自分が何に触れたらよいのか、ということです。
  2. 作意(さい)manaskAra というのは、心をそれに差し向けることです。いいものに触れて、それをなおかつ指向するということです。たえず指向することです。
  3. (じゅ)vedanA は喜びを感受する。善いものに触れたら喜びがわいてくるはずです。この本いいですよと言っても、いいですか?どこがいいですか?と聞く人がいるけれども、がっかりしますね。善いものに触れたら喜びを感じて、打てば響くような感じる女性・感じる男性になってほしいのですが。喜びを感受できるほどに、知性と情 操を育んでください。そうして喜びを感受したなら、私もそうなりたいという善の思いを育んでいくわけです。
  4. (そう)samjJA というのは思うということです。5思とは違うのです。4の想は想像するということではなくて、それに対していつでも思いをめぐらせて、いわば片想いの想いです。いつでもそのことを思うのです。たとえばハン先生やイーしワラン先生のように話し・歩き・行動することができたらいいなあと、そういう思いを育んでいくわけです。そうすると夢を見ますよ。想い続ければ。
  5. (し)cetanA は意志のほうで、ひたすら志向することです。だーラナー・だーラナーです。善に対するだーラナー。そうして、どういう日常生活の局面においても、衆善(しゅぜん)(多くの善)を奉行(ぶぎょう)(奉仕行動)する。全体生命に奉仕して善を行なう。ですから、奉行はクリヤーに当たります。善の熏習とクリヤーは何も変わらないのです。衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)は、全体生命に基づいたクリヤーといっしょなのです。諸悪莫作衆善奉行(しょあくまくさ・しゅぜんぶぎょう)と 言うでしょう。もろもろの悪はなすなかれ、たくさんの善を積むべし。というよりも、もろもろの悪は打ち捨てられ、たくさんの善がなされるという全体生命があるばかり、という究極のクリヤーになるわけです。それがカルマ・ヨーガです。そういうことをするためにどうしたらいいかといったら、最初に言いました、“自分にも人にもやさしくなれることを、思い・話し聞き・しましょう”ということです。相手にやさしくということですから、もし相手が慢心する人であったら、そういう慢心を捨てられるように、相手に状況を設定してあげるのです。その上で相手が話したい・聞きたいことを、一応聞いてアドバイスしてあげるわけです。甘いだけではだめなのです。相手の気持ちを増長させてはいけない。かといってそれを無視してもいけないのです。こういうことを言うからには、実践しなければいけないのです……
では残り時間を利用して、“自分にも人にもやさしくなれることを、思い・話し聞き・しましょう”という善の熏習瞑想をしましょう……