2011年12月7日水曜日

kriyat11 修行と転識得智

第 11 章 修行と転識得智


[A 修行のプロセス]



http://youtu.be/I1r8elgGht8

この章がひとつの山場です。修行のプロセスというのはあるかもしれませんが、悟りのプロセスというようなことは、本当はおかしいのですが、説明する以上分析しないとできないのです。悟りを分析すると、もちろん悟りからはハズレてしまうわけですが。私意識というものを解消するためには、私意識に気づかないといけないというパラドックス(逆説)みたいなものがあるわけです。たとえば、障子やガラス戸の桟(さん)にほこりがたまっていると気づいた人は、ふき取ったりハタキをかけるでしょうが、見れども見えずで、ほこりを見れない人は、ほこりを取ることもできません。私意識というものに気づかないと、私意識を解消して、全体生命と一体になることもできないのです。その私意識と、私意識から発生したもろもろの思い一切が煩悩です。それをどのように晴らしていくかということを、一応理論的に説明して、大変よくできているなあと思われるのが、唯識のほうの転識得智(てんじきとくち) 説明だと思います。これに、ヨーガのアーサナやプラーナーヤーマやムドラー mudrA やバンだ bandha やクリヤー kriyA はなぜするのだろう、という疑問を当てはめていくなら、転識得智を起こすためであるとわかってきます。聖者方がどうしてそういうことを教えたのだろう?目的があってのことですね。その目的をきちんと把握するなら、これこれのことをすればいいのだと、自分の課題がハッキリしてくるのです。

アーサナやプラーナーヤーマやムドラーやバンだやクリヤーを使ってもいいから、私意識を発見することにそれらを利用したらいいと思います。仕切っているものを取れば仕切り無しです。limit しているものが無くなって、limitless になれば、永遠・無限なのです。



(意)識を個人意識、集合意識、普遍識と三つに分けるとしましょう。そうすると、神とか全体生命というのは、普遍識ですね。普遍識に対して、私意識というのは、個人意識ですね。私という個人意識の複数形=「私達」になると、それを集合意識と言います。個人意識も集合意識も、もちろんいろんなレベルにおいてあります。たとえば、潜在意識と言われるものにも、個人的な潜在意識とか集合的な潜在意識があるように。すべてのレベルで個人・集合・普遍というものがあります。有根身と全八識いずれのレベルでも、個的・集合的・普遍的というものがあります。個的から普遍的に至るためには、個的を集合的に拡張していって、集合的を普遍的に拡張していかなければいけません。出身県意識とか国籍とかを打破して、地球人意識というものを獲得したなら、意識がだいぶ拡張されます。この太陽系のたった一つの地球の生きもの・being ということで、意識がだいぶ拡張されるわけです。たった一つしかないこの全体宇宙生命意識というものを獲得したなら、普遍識になるのですね。

そのように意識を拡張していくときに、決め手になるのは集合意識ではなく、個人意識なのです。というのは、「私達」を作るためには、「私」が無いとだめ なのです。I から we にいくためには、I が基本になるから、I・私というものをつかんだなら、その複数形は簡単にわかることです。「私」を、唯識のほうでは第七マナ識として説明しています。この第七マナ識は結局第二能変ですから、第一能変の第八アーらヤ識から生じてきています。第一能変が第八アーらヤ識、第二能変が第七マナ識、第三能変は第 六識と前五識で、一が二を生じ、二が三を生じ、これに有根身で手足がひっついているという構造になっているわけです。ぼくたちが考え事をしているのは第六識で、ここが顕在意識です。第二能変が潜在意識に当たります。第一能変が無意識と言われる領域です。全八識の構造を大体わかってもらったところで、修行と転識得智のだルマ図を使った説明に移りたいと思います。


http://youtu.be/jzPQ-GS84gM

[B 八識の旅]



まず上の八識の旅のほうを見てください。ここに「入定」とありますが、定は禅定の定です。禅定に入るということです。原図は般若心経講座で利用したもので、そこに“行き、行き、行くべきところへ行き、行くべきところへ行き着いた覚 bodhi よ”と書いてありますね。修行としてとらえた場合、最初の“行き”は、前に言いましたが、愚者から求道者に行かないといけないのです。せめて求道するという気持ちが無いと、ヨーガとか坐禅は無理ですね。

仏教徒やクリスチャンになってみるとかはできるでしょうけれども、イエス・キリストの弟子、それからゴータマ・ブッだの真正な弟子になることはできません。とにかく在家でもいいから、ひたすら私はそれを求めるのだという気持ち・意欲が無いと、この“行き”はかなわないのです。まあ求道者になったと仮定しますね。そうしたなら、この体(有根身)と全八識を用いて修行しようという時に、“行き”でどこに行くのかと言ったら、肉体から第六識をめざして入っていかなければいけない。ということは、行動をつき動かしている思いに気づかないといけない。それで肉体感覚器官(五根)→前五識→第六識に入っていくように、方向を示してあります。

眼で外を見るときに、眼はレンズの役目しかしていません。たとえば目を閉じても、人物などのイメージが出てくるというのは、前五識の眼識、つまり視覚神経が働いているからです。視覚神経は内部で働きますから、眼が外界からしゃ断されても、白日夢を見ることができます。もちろん夢も見ることができま す。ヨーガ修行をする人にとって問題になるのは、感覚器官(五根)よりも前五識なのです。次に、前五識に映ったものを私がどう判断しているかが問題になりますから、第六識に入っていかなければいけない。それで最初の肉体の感覚器官から、この前五識のほうへ入っていく修行として、第2章から第6章までの修行が役に立つのです。

次に第六識に関しては、第7章のだーラナー覚触がいちばん問題になります。第8章ホーンソーは、すばらしいテクニークのひとつです。第9章の煩悩のアク 抜きと第 10 章善の熏習で、第六識をきめこまかに浄化していくことができます。聖者たちには心の活動が無いというのではなく、心の活動が全体生命に満ちているのです。全神経系統が、仏性神経・ブラフマン神経・キリスト神経なのですね。神経系統を使役(しえき)しているのは、第八識にある記憶です。記憶が上がってきて、第六識つまり脳で判断したことが、脊髄を伝わって末梢神経に出て、肉体を動かしています。 ぼくの神経は、ぼくの第八識のデータ・記憶を伝えているのです。ナーディー nADI は感情思考を伝えると言われますが、言い換えれば、神経系統は記憶を伝えるのです。

第六識の浄化のためには、善の熏習と覚触を併修(へいしゅう)することだと思います。善いものに触れ、悪いものに触れるのを少なくしていくことです。悪いものに触れ、善いものに接触しないのでは、変わりようがないですから。悪いものは何か、善いものは何かという判断は、種々の教材を勉強してみないとわかりません。それから坐禅会やヨーガの修行会に行ったりして、指導者やそこに集まる人たちの表情や行動をよく観察する必要がありますね。本気で求道している人には運が向いてくるものです。求道してない人には、何も運が向いてこないのです。欲望の強い人は、欲望の強い先生に結びつくでしょう。

そのあと第六識から第七識へ行くところが難関なのです。よけいな話ですが、第六識は肉体脳ですから、死んだら無くなってしまいますが、死ぬときにスーッと全部移し取られて、残るのは第一能変と第二能変で、この二つを合わせて、ヨーガでは一般にコーザル体 kAraNa-zarIra と言っています。輪廻転生するのは、このコーザル体である、あるいは第八識(種子識。蔵識)である、とヨーガでも唯識でも言います。


第七(マナ)識ですが、第9章の図(煩悩アク抜き図)を見ると、18 の心所(心の働き)をします。18 の働きをするのだけれども、基本になるのは何かと言ったら、7我癡(がち)なのです。これは私だという思い。だからどんなときでも、それを確認したらいいのです。ご飯を食べている時、私が食べている。話をしている時、私が言っている。聞いている時、私が聞いている。その私が潜在的にいつでもあり、潜在意識として出るのです。潜在的にもその私という思いが無いと、ラマナマハルシみたいになります。“あなたは・すべては真我・全体生命なのです (You are the Self.)”と、「私」というもの(個)を認めないというか、そういう私意識を持っていないのです。私が無いから、あなたも無いのです。わかりにくい人は、今は個的な存在は全体生命の中の一部であると理解しておいてもけっこうです。分別している思いがあると、その人がそう思っているだけで、本当は無いものを有ると思っているだけなのですが。

第七識を発見するためには、第 10 章以降の修行が必要です。第七識を発見するいちばんストレートでシンプルな方法は、アートマ・ヴィチャーラ Atma-vicAra です。思いの出所の探求です。それをできるようになるためには、坐禅して、瞑想して、考えが出た瞬間に手放すことです。そのほかの方法でもできるでしょうから、自分に合った方法でしていってください。ぼくは覚触&アートマ・ヴィチャーラの修行をしていて、自分に向いているので、それを説明することが多いのですが、たとえばばクティ bhakti の修行をして、私はしヴァ神 ziva を信仰する、しヴァ神と私がある、確かに私があると私は思っている、そういう確認法でもいいでしょう。それでも ziva しヴァ神と思う思いですから、思いの出所と同じことなのです。結局は、ばクティ bhakti もヴィチャーラ vicAra になってしまうのです。

それからその先、第八識に入っていくのはむずかしくはないのです。というのは、私は考えていることに気づく、それを出しているのは私意識である、と理解できて、いつでも手放をしている人は、その修行行為の記憶が第八識にどんどんたまっていくからです。そうすると、なにか思いが出てきた時に、 それは私の記憶から出てきたと、条件づけに容易に気づけるようになります。名言習気(みょうごんじっけ)とかナーマ・ルーパ(ナーマ nAma = 名、ルーパ rUpa 色)とも呼ばれている言葉・名前・形は、すべて条件づけされた分別にすぎないのだということを、なんべんも繰り返し確認していって、自分がかつて体験した 記録である第八識のデータの粉飾を捨てていくことなのです。

あるいは条件づけされていることをハッキリと覚智することです。もし無思考状態が1秒でも覚智できたとすると、1秒の無思考覚智記憶がたまります。1秒の無思考覚智経験が記録されるわけです。それがひんぱんに起きると、ひんぱんに記録されます。第七識が働かなかった時間が全部記録されていくので す。第八識に、私という思いを持たないで記録された体験がどんどんたまっていってごらんなさい。それが圧倒的になったら、私という意識は無くなってしまいます。私という個人的に仕切った意識は無くなってしまうのです。そういうふうに無くなった状態の人がブッだ、キリスト、マハルシ maharSi (mahA-RSi) なのです。

そこまでいくと、その過程でどういう転識得智が起こるかというと、転識得智図の下方で、1番は妙観察智という第六識の浄化ですね。第1章から第7章、そして第7章から第 10 章と修行して成功するなら、判断の澄浄が起きます。五感官でとらえたものに対して、正確な判断ができるということです。

そしてそのつぎには、判断をする私意識(第七識)が希薄になっていきます。体験したことが私の体験ではなく、全体生命としての体験であったというふうに思い直されてきます。ぼくは一応皆さんに「ぼく」と言っていますが、ぼくが体験したことは、全体生命の体験だと、本当に第六識で思っています。以前は、すべては自分が体験したと思っていましたが、今は自分の体験を全体生命の体験だとしか思っていないのです。

第七識が澄浄化して「自分」(仕切り)が解消されると、2番目の平等性智という転識得智が実現します。

それによって、第八識の記憶から「自分」(仕切り)というアクが抜け、そのアクが抜け切れれば3番目の大円鏡智が実現し、すべては全体生命の体験であったということがわかります。

もうそこからしか記憶は出てこないので、神経は前五識・五感・肉体を全体生命の道具として使役する。仏性神経が確立され、4番目の成所作智が実現します。そこからハズレなければゴータマ・ブッだ、イエス・キリスト、ラマナマハルシのような生けるブッだ、生けるキリスト、生けるマハルシです。皆さんは聖者になるわけです。そういう順番で起こりますので、修行と転識得智をよく研究してください。