2011年12月7日水曜日

kriyat13 一切生命現象/全一(全体)生命意識=無常/唯識

第 13 章



http://youtu.be/be_dOYJMN9k

[A Peace invocation]




http://youtu.be/kaapZlULzSg


アールシャ・ヴィディヤー ArSa-vidyA आर्षविद्या(聖賢の全体生命智)の内容の理解を深めていきましょう。第 13 章のタイトルは分母と分子の関係で、一切生命現象/全一(全体)生命意識=無常/唯識のように書き表わされています。たった一つしか無い識(分母)において、分別しただけの一切の現象(分子)が起きている。分母の全一生命意識と、分子の一切生命現象は異なるものではないのです(不異)。心と体のように、結局は同じエネルギーでできているものです。分けて考えてみて、なるほどと頭で理解して、そのあとで理解しただけではなく、それを自分で証(あか)ししていく。

分母の全一生命意識は、唯識と同じです。一切生命現象は常ならず変化している無常。一切のものが変化しているということで、無常=一切生命現象です。無常の一切生命現象を、ヨーガではマーヤー mAyA माया と言います。唯識(一の。一切生命現象はと不異)をヨーガではチト cit と言いますが、結局はいっしょです。常ならず転変する現象世界も何から起きるのかといったら、たった一つの識から出ているだけなのです。これを深くわかりたいと思ったとき、知的な人に非常に参考になるのが、pUrNamadaH pUrNamidam पूर्णमदःपूर्णमिदम् というダヤーナンダ先生の講話録です。20 ページ程の本ですから、英語ができる方は読んでみてください。

ウパニシャドの中では、イーしゃヴァースィヨーパニシャド IzavAsyopaniSad ईशवास्योपनिषद् が一番短くて、18 節から成っていますが、その 18 節の前にしゃーンティ・パーた zAnti-pAtha शान्तिपाथ(Peace invocation。平和の祈り)というのがあって、ここにこれから扱うテーマが出てくるのです。それを解説したのが『pUrNamadaH pUrNamidam पूर्णमदःपूर्णमिदम्』です。


pUrNam पूर्णम् は completeness(完全)と訳されています。その他の訳としては、fullness (十全)という訳語も使われることがあります。

Completeness is that(あれは完全である)
completeness is this(これは完全である)
from completeness, completeness comes forth(完全から完全が生じてくる)
Completeness from completeness taken away(完全から完全が取り去られても)
completeness to completeness added(完全に完全が付け加えられても)
completeness alone remains.(完全だけが残る)

これでわかる人にはわかるのです。ああすばらしい、本当にそうなんだと思えればいいのですが。どうも私の頭は不完全だし…ということで解説です。
図解に idam इदम् = this と書いてあります。コレ客体。コレが私と思うでしょうが、そうではありません。伝統的に idam = this はこの世界を指しますから、分数式の分子のほうです。一切生命現象とか無常と書かれたほう、それが idam = this です。客体ですから、私というものがいて、私が見ている世界、それが idam = this です。それは完全であると言うのです。

それから adaH अदःは that、主体・自分のほうです。アレが自分です。コレは世界、アレが自分と今覚えてください。必ずカン違いする人がいるから。

普通はなんとなく、客体があって主体があると思っているのですが、その主体をまた分析していくと、眼が客体になって、眼識という前五識が主体になる。それから眼識が客体になると、第六識が主体になる、と自分の中を分けていくと、客→主→客→主→客→主となっていくのです。図に出ているとおりです。自における主客と書いてあるところです。その上に分数式が出ていて、分母には客体+主体=全一(全体)生命意識、分子には客体+主体=一切の生命現象、と書いてあります。

人間存在の構造を分別して、五根が埋め込まれている肉体を体と呼び、前五識・第六識以下を心と呼ぶことができます。体と心のほかに魂という言葉を使う人がいます。その場合の魂というのは、意識 consciousness という意味です。頭で考えたことに気づくことができる意識が、どこかに組み込まれていて、その気づきを分離して、それを魂と言う場合があります。

体・心・魂。ところがキリスト教のほうでは、魂・心・体を、霊・魂・体と表現します。心を魂というのです。ぼくたちが(意)識 cit と言っているのを霊というのです。だから言葉の混乱が起きやすいのです。ですから、心を捧げ、魂を捧げ、うんぬんという聖書の訳が出てくると、その明確な意味は不明確(?)ですね。聖書のここで言っている心はこう、魂はこうと定義しないと、日本語としては通用しません。言葉は使う人によって意味合いが違うので、重要な用語の使用にあたってはまず定義を提示することが大切です。

ここで言う客体+主体=全一(全体)の生命意識の意識は、ヨーガで言う魂であり、キリスト教のほうで言う霊のことです。分子の客体+主体=一切の生命現象は肉の世界ですね。罪(?)の世界です。ヨーガのほうではマーヤー mAyA माया と言っているところです。仏教的に言うと五蘊(うん)の生命活動の世界です。色(しき)の世界、この現象世界です。分子のほうはどこから出てくるのかというと、分母のほうから出てくる(子は母から出て来る)のです。そこが唯識では非常にハッキリしているのです。第一能変、第二能変、第三能変と発生の順序を説明しているのです。霊から魂がやってきて、魂が体になった。では、すべては神の世界ではないか、全体生命ではないか。どこが悪いのか。その仕切っているところが悪い。仕切っているところが原罪だということです…

一番下に仕切り無しの[自在]主とありますが、客←主←客←主←客←主となって、最後にたったひとりの主というのがあります。それと自分の意識が一体になるわけですから、主客の主→主→主と奥に深めていったとき、実は仕切り無しの主=自在主 Self であったとわかる時がきます。それが無種子三昧(ニルビージャ・サマーでぃ nirbIja-samAdhi निर्बीजसमाधि)です。それが『ヨーガ・スートラ』のカイヴァりヤ kaivalya कैवल्य です。唯(一の)識がある。仕切り無しの自在主はまたプルシャ puruSa पुरुष とも表現されています。それは体験するよりほかはなく、概念では説明できないのです。言葉では説明できないのです。ラマナマハルシみたいに "Do it."(それをしなさい)’‘思いの出所の探求をしなさい’、と答えるよりほかはないのですね。思いの出所の探求をして聖者になったら、Self と一体になったらどうなるのですかと聞く人に、ラマナマハルシが言えた言葉は、"Do it." だけだったのです。そうしたらわかるから。それ以上答えようがないのです。



日本語の意訳でみてみましょう。
  • 全一生命[意識]は完全であり:完全から出てきたのだか ら、一切生命現象は全体としては完全です。部分的に見ると不完全と分別するでしょう。あなたは完全なのですと言われても、私は肝臓が悪いのです、不健全ですと言うかもしれません。でも全体生命の現象の新陳代謝として死ぬ人もあれば、生まれてくる人もいます。個別的に見れば、ですね。でも全体生命として は、全体生命が死んだり生きたりするのではないのです。不生不滅なのです。部分的に仕切った場合にしか、そして健全な状態と思っているものと比較したときにしか、苦悩(非アーナンダ)は無いのです。全体生命として見たら、苦とか楽とかそういうことはない。アーナンダ Ananda आनन्द があるきりです。
  • 全一生命[現象は]完全であり:ここは、全一生命[現象は]の次に[全体としては]を補って読むとよいところです。不完全と見るのは分別しているからで、その分別性が不完全だから、不完全と見えるだけです。この東林院の美しい景色、これは完全なのです。この idam इदम् は pUrNam पूर्णम्・完全なのですよ。もうちょっとここに木があったらなあとか思うのは、その人の分別です。木の葉が落ちなければ、いつでも緑だったらいいのにというのは、人間の分別です。これで完全なのです。皆さんも、それで完全なのです。でも皆さん、そう思ってはいないでしょう?今このまま全体生命として 完全なのですよ。
  • 完全な全一生命[意識]から完全な全一生命[現象]が生じる:これは上のことをもう一度言っているだけです。
  • 全一生命[意識]から全一生命[現象]が取り去られても:というのは、全一生命意識、この完全無欠な一から、後から生じた二とか三が取り去られても、やはり完全無欠である。何か取られたら完全は無くなるではないか・無くなったら不完全ではないか、と分別している頭が無くなれば、完全しか無いのです。私がいなかったら家族が困るから、と思っているのはこの不完全な頭ですから。不完全が不在であれば、完全です。世間で、オレがやらなくて誰がやる、と言う人がよくいるでしょう?その頭が無くなったら、もっと完全ですと言いたいのですが。その頭が無くたって完全ですし、またソコから頑固頭が出てきたり、消えたりするわけですから、有っても無くても完全なのです。全体生命 のエネルギーそのものですから、完全なのです。ですからどのように変化しても、変化しないように見えても、いつでも完全だけがあるのです。誰か一人亡く なったって、それを構成していたエネルギーは、この全体生命からは減らないのです。だから不増不減、不生不滅なのです。増えもしないし減りもしないし、生じたのでもないし滅したのでもない。ただ全体生命として在る、sat = I AM です。分別が始まると、I am thinking です。 thinking 無し、no(t) thinking が I AM です。(I AM is. I AM is not thinking.)
  • 全一生命[意識]に全一生命[現象]が付け加えられても完全な全一生命だけが在る: 全一生命の意識にでもこの現象世界全体にでも、あなたの個人の心身が付け加えられても、完全なのです。たとえば、これから赤ちゃんが生まれたとするでしょ う。赤ちゃんの心身がこの世にやってきても、この全体生命の完全さは失われない。完全に完全が足されただけですから、完全なのです。それから、たとえば誰 か一人の聖者、あるいは誰か一人の凡夫の身心が世界から消え去っても、完全なのです。消え去ったといっても、五感の知覚世界から消え去っただけで、聖者あ るいは愚者の身心を構成していたエネルギーが無くなるわけではありません。
すべてはト ランスフォーメイション(変容)して、ほかのものになるだけです。全体生命として、相変わらず働いているだけなのです。だから、取り去られても付け加えられても、完全な全一生命だけがある。あなたの本質はソレなのです、ということです。本質をわかるために、主客の旅を客→主→客→主→客→主と洞察して いって、最後に残った主、それは仕切りなしの主になってしまうということです。ですからなんとしてでも、第七マナ識、アハンカーラ ahaMkAra の壁を破っていかないといけない。私意識を手放していかないといけないのですね。私意識はマナ識(manas मनस्。マナス)とも言います。マナ識は染汚意(ぜんまい)とも言います。染められて汚れた意という意味です。アハン aham अहम्(「私」)が無い世界に入るので、無私・無我と言いますが、全八識のうちのどこがどうなるのかを確認しないといけません。頭でもわかって、実際に日常生活で身口意三業で実践できないといけないのです。悪口を言われたら腹を立てるのは、「私」が有るからです、それで、無私とか無我とか言うお坊さんに、‘和尚さんは決しておこりませんか?’と聞けばいいのです。‘わしはおこらんよ’と、最初はにこにこして いるでしょう。‘本当におこらないですか’と聞くと、‘おこらないと言ったらおこらないのさ’‘本当におこりませんか’‘お前、おこらないと言ったらおこ らないのだよ’とだんだんおこってきますね。そうすると‘和尚さん、「私」が有りはしませんか?’ということになりますね。30 ぺん聞いたらどんなグルでもおこる、とダヤーナンダ先生が書いています。

ラマナマハルシだったらどうすると思いますか? ‘ばガヴァーンはおこりませんか?’と聞くでしょう。彼の場合には静かにしているだけで、応答しないのです。‘オレはおこらない’というのは、オレを持っているのです。そういうことをもう超越している人は、怒りませんかと聞かれても、にこっと笑ってじいっと相手を見ているだけ。無言の、私意識が無いという ことの教え。だから真実というのは、言葉だけでは伝えられないのです。ぼくは言葉で言って、あと皆さんやってくださいよという役目を持っていると思っているので、またそれぐらいのレベルだと思うので言葉を使いますが、 本当は言葉を使っては、全体生命を説明したり、表現することはできないのです。あれがお月さまですと指し示す指の役目しかぼくはできないと思って、こういう講習会をしているのです。もしぼくが無言で「農あるヨーガ生活」をしていて、来た人に生き様として、言葉を交わすことなくお伝えできるのならそうな でしょう。それができないので、こうしているだけです。ですからそういう聖者につながったらいいと思うし、そういう聖者というのは極めてまれだと思いますが、つい最近までラマナマハルシが生きていましたし、またそれに近いような聖者方が何人かおられますから、そういうグルたちにつながっている人たちをまず 紹介しているわけです。そこから上にいくとマハルシとかパーパー・ラーマダーサとか、ラーマクリシナ rAmakRSNa とかいますから、そういう聖者たちの流れをくむ人たちにつながったらいいですよということです。