2011年12月5日月曜日

kriyat18 在家への教え:リトリート

第 18 章 在家への教え:リトリート



http://youtu.be/nMHOV5NsVcM

[A ラーマクリシナ]




http://youtu.be/kgnTRgz4E_A


第 17 章の禁止令の解除のところで、一応理論的な説明は終わりです。ここからは締めくくりです。この章は在家への教えということで、リトリートという英語がありますが、その見直しです。『ラーマクリシュナの福音』という、日本ヴェーダーンタ協会から出ている千ページを越す分厚い本があります。(推薦書:『大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉(コタムリト)第一巻』)その p. 276 からの引用がこの章のテキストです。ラーマクリシナ rAmakRSNa の写真で一番有名なのはこれですね。


踊ったりキールタン kIrtaNa を歌ったり、そして踊ったまま三昧(サマーでぃ samAdhi समाधि)に入って、甥のリドーイが後ろから支えているところです。信者さんたちはじいっと、ラーマクリシナが三昧に入っているところを、15 分でも 30 分でも見ているわけです。三昧のヴァイブレイションは強烈ですから、周りの信者さんたちにラーマクリシナのサマーでぃの霊的ヴァイブレイションが伝わっていきます。ラーマクリシナからはヴィヴェーカーナンダ vivekAnanda という大変有名な弟子が出て、ラーマクリシナ・ミッション Ramakrishna Mission という、世界で最も大きなインドの宗教団体になっていますね。
  • “私は彼に言ったのだ、「人はなりたいと思っただけでジャナカ janaka जनक 王のようになれるものかね。彼は神の知識を得るためにどれほどの苦行を実践したことだろう。長年のあいだ、もっとも厳しい禁欲の生活をつづけて、そのあとではじめて世間の生活に戻ったのだ」と。”

    ジャナカ王は、ジニャーニン jJAnin ज्ञानिन्(ギヤーニー・真智者)であり、またラージャ rAja राज(王)でもあった方です。体(肉体世界)・心(精神世界)・霊的世界の三つの世界でバランスのとれた人でないと、一国を統括(とうかつ)することはなかなかむずかしいですね。ジャナカ王といえども、最初から帝王として君臨したのではなく、神の知識(全体生命智)を得るために、まず熱誠な修行(タパス tapas तपस्)を実践したのです。ラーマクリシナは今生アヴァターラ avatAra अवतार(化身)として生まれたそのあとに、キリスト教の修行をしたり、回教の修行をしたり、タントラ・ヨーガ tantra-yoga तन्त्रयोग の修行をしたり、悟りを得たあとでもなお修行されました。
  • “それでは在家の人たちには希望はないのか、決してそうではない。彼らは何日間か、人気を離れたところで、霊性の修行をすべきだ。そうすれば、知識と信仰を得るだろう。世俗の生活をしてもそこなわれることはないだろう。”

    修行をして全体生命智を得たなら、それを守りながら、たとえば公務員とかサラリーマンなどの世俗の生活をしても、自分の心が世俗の欲望で損(そこ)なわれることはないだろう、ということです。
  • “しかし、そういう場所で修行をするときには、完全に家族から離れなければいけない。奥さんや子供たち、両親や兄弟姉妹、友だちや親類がそばにくることを許してはいけない。このような修行の期間中は、「私はこの世に何ものも 持ってはいない。神が私のすべてである」と思うべきだ。そして彼に向かって、涙を流して知識と信仰を祈るべきである。もし、どのくらいのあいだそのように家族と離れて暮らすべきか、とたずねられるなら、私はたとえ一日でもそのようにして暮らせるなら、あなたのためになるであろうと言おう。一度に三日間ならもっと良い。十二日間でも、一カ月でも三カ月でも一年でも、自分の都合と能力とに応じてするがよかろう。知識と信仰を得た後に在家の生活を送るなら、たいして恐れることはない。”

    在家の人たちは、ひと月に何日間か、人気(ひとけ)を離れたところで霊性の修行をすべきだということです。リトリートというと、人がたくさん集まるところに行くでしょう。そうではなく、一人きりになれるところに行ったらいいと、ラーマクリシナは言っているのです。この講習会も 40 人近い方たちが来てくださいましたが、これもリトリートではないですね。それでぼくは集中行とか、講習会と言っています。リトリートするためのテクニークをお伝えしましょうということです。一人きりになれないと、まあ二人で修行しよう、何人かで集まってやりましょうということになりがちですが、それはぼくは修行だとは思いません。たった一人きりでするのが修行だと思います。誰かといっしょにやろうというのは、さみしいから集まろうというだけですよ。それは修行とは言えないと思います。

    ラーマクリシナが言っている通りにしてごらんなさい。なかなか朝から晩まで一日といえども、一人きりで修行をするのはむずかしいとわかるでしょう。ぼくは結婚してましたが、平瀬に引っ越して行って、まったく一人きりで、来る日も来る日も一人きりで修行していました。皆さんは家族があるかもしれませんから、一日でもいいから、たった一人きりになるトレーニングをしたらいいでしょう。ひと月に一度一日だけ一人きりになるということを、家族と話し合って了解をとってしてみたらいいと思います。それからティクナトハン先生が言っているように、一週間に一度はマインフルネスの日をとって、一切の通常の業務から解放されて、書けなかった手紙の返事を書くとか、読みたかった本を読むとか、できなかった瞑想やウォーキングメディテイションをするとか。家族の了解を得て、一週間に一度自分の日、マインフルネスの日を持ったらいいと思います。安息日は一人きりになって、神といっしょに安らかな息を楽しんだらいいのです。「私は神だ」とわかるためには、まず自分一人きりにならないといけないのです。寄り集まってわかることではありません。


http://youtu.be/PHF3PD2ASpc

[B リトリート(1)]


リトリートですが、図をごらんください。


  • (イ)treat (1) =[他を]取り扱う(こと)=有分別
    treat は外の世界を自分が取り扱うことで、他を取り扱うこと。これが本来の treat の意味です。これは有分別と書いておきましたが、分別が有るということです。つまり「私」があるから他を扱える。それがわからないと retreat の意味がわかりません。ふつう retreat と言われているのは、眼がかいてある感覚器官→第六識→…第八識の方に内向化することです。それが(ロ)です。
  • (ロ)retreat (2) = 内観(回光返照(えこうへんしょう))する(こと)=無分別智(大智)志向の上求菩提(じょうぐぼだい)のクリヤー意識の光を、外に向けていたのを内側にめぐらして照らし返すとこと
    これが一般の意味で使われている retreat ですね。ですから皆さんがヴィパッサナー vipassanA やその他のリトリートに行くということは、自分の心(思い)を観るためなのです。人がたくさん集まると、計(はか)らいが働いて、誰でもかっこうをつけたがるのです。一人でかっこうつけたって様にならないから、一人で自分の本音を観る、自分の本心を聞くのが内観です。そして第六識から第七マナ識、自分の体験記録である記憶がたまっている第八識を観ていって、これを体験したのは私だという分別ではなく、私ではない全体生命の体験であったという無分別智を志向するのを retreat と言うのです。辞典に書いてあるような、静かな場所に行くこと、ではないのです。自分の思いを観て、それが静まるのを待つ修行をすることが retreat です。
    大智と書いてありますが、それが般若心経で言う「空」です。空智とも言います。大智をヨーガでは「ニルビージャ・サマーでぃ nirbIja-samAdhi निर्बीजसमाधि」と言い、「無種子三昧」と訳されています。十字架にはりつけになることです。十字架にはりつけになることができた人が、 無分別智を得た人ということです。ですからキリストというのは、無分別智と同じです。神 Self しか無いということを知ること。でもキリスト教はばクティ bhakti भक्ति すから、ラーマクリシナといっしょで、神と私という関係をかなり強調します。ジニャーナ jJAna(真智)の立場では、そういう二元的なものを一切認めないのです。「私が神」であり、「あるのは神だけ」だ、それが究極だと思います。方便として、私(イエス)を通じて父なる神と一体になると言っているだけです。バイブルは、世俗的な人にも読めるように、それから霊的な求道者にも読めるように、方便としてそういうふうに書かれているだけです。
    上求菩提(じょうぐぼだい)は霊的に向上しようと願うことで、肉体・感覚世界から第八アーらヤ識=無意識=コーザル体のほうに向かっていく動き(クリヤー)です。それをリトリートと普通は言っているわけです。

[C リトリート(2)]


そこまででもいいのですが、もうひとつリトリートの見直しがあります。種々のクリヤーを実修してコーザル体に入っていく。今度はそこから出てきて、全体生命と一体の活動をするクリヤー(カルマ・ヨーガ)がありますね。ハン先生もこのことを言っておられます。(ハ)の re-treat です。辞典によってはこのように、retreat と re-treat と二通り出ています。
  • (ハ)re-treat (3) =“再び取り扱う”としての treat (2) =[他を]治療・歓待する(こと)=世間清浄(しょうじょう)分別智(有(う)分別後得(ごとく)智)による下化(げか)衆生の大悲のクリヤー
    この場合の re は once again(もう一度)で、“再び取り扱う”としての treat (2) です。(イ)treat (1) の見直し、(ロ)retreat (1) の見直しが、ここで言いたい(ハ)の re-treat なのです。ふつうは私とあなたという自他の分別がありますが、(ロ)の retreat を完成した人には、自他の分別は無いのです。「全体生命としての私(=和他私 Self)」しかないのです。アハンカーラ ahaMkAra अहंकार の私 (I) ではなく、アートマン・ブラフマンの和他私 sat सत् (I - I) しかないのです。ですから全体生命と一体になった和他私が、まだ分別意識を持っている人に対して治療してあげたり、カウンセリングしてあげたり、ヨーガの修行方法を教えてあげたり、あるいは一般の人を歓待すること、親切にしてあげることが(ハ)の re-treat です。
    (1) で treat している場合でも、他人に親切にしてあげる人たち、あるいは慈善行為をする人たちもいますが、私と他という関係の上でしているのですね。宗教的に全体生命にめざめた上でしているのではないですね。マザー・テレサのは re-treat (2) のほうですが、寄付をして感謝状を送られて喜んでいるなんていうのは treat (1) のほうですね。世間清浄分別智(有分別後得智)による下化衆生(げかしゅじょう)の大悲のクリヤーとは、すべては全体生命であったとわかる大智・空智・無分別智を得た後で、分別してみれば仕切られているこの肉体を利用して、世間の人が全体生命にめざめるために、全体生命の清らかな心をもって相手の人にやさしく愛をもって接することです。
    この(ハ)の re-treat にいくために、(イ)の treat = 有分別の世界から(ロ)の retreat 修行に入るわけです。そこはワガママに修行したらいいです。家族がいようが週に一度は私一人になって修行する、あるいは月に一度はどこかに行って一人きりで修行すると。それができない人は(ハ)に行けないのですよ。(ロ)の retreat にしっかり定まることができた人だけが、(ハ)世間清浄分別智者として生きることができるのですね。(ロ)の retreat をしていないのに、(ハ)になりすましたふりする人たちが多いのですよ。世間の牧師さんとか坊さんとか、そうでしょう?説教のうまい人たち。ヨーガの先生たちもそうでしょう?三昧体験なんか何も無いのに、三昧のことを本に書いたりして、まったく虚偽の世界だと思います。それではいけないのですね。
それでどういう修行をしたらいいかということで、第 17 章の禁止令の解除までで方法は示しましたので、そこまでをこの第 17 章に応用して、週に一度、できない人は月に一度でもいいから修行したらいいのです。そうしたならいずれ皆さんも(ハ)の re-treat をできるようになるでしょう。解脱したあとラーマクリシナ、ラマナマハルシたちがなぜ肉体をもって生命活動したのかと言ったら、仏教的に言うと世間清浄分別智による下化衆生大悲の生命活動をしたということです。そういう生命活動をぼくはクリヤーと言っているわけです。全体生命のプラーナ prANa प्राण をめぐらすということですね。足りないところには回してやる。滞っているところは除去してやる。それがクリヤーです。まずは(ロ)をめざして修行しなければいけないということです。

週に一度はマインフルネスの日を持つとか、あるいはひと月に一度はリトリートをするとかしたらよいですね。マインフルネスの日には自分でしたいことをしたらいいのです。しかし、同じ権利を他者にも認めないといけません。